ジハード(聖戦)とは何か

カイロで考えたイスラム(6)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 イスラムの刑罰は三種類に分けられている。第一はコーランの中で定められているハット刑と呼ばれる固定刑で、姦通罪や姦通の中傷罪、飲酒罪、窃盗罪、追剥罪に対して与えられる身体刑罰だ。
 第二はキサースと呼ばれる同害報復刑で、意図的になされた殺人や傷害の犯罪者に対し、遺族(相続人)や被害者による了解の下、公権力が被害と同等の処罰を執行する。
 第三はタアズィールと呼ばれる裁量刑で、上記二つ以外の宗教的罪や犯罪に対し、裁判官がその裁量によって命じる刑罰。宗教的罪とは、断食期間中の飲食や礼拝をしなかったことなどを指す。青柳かおる氏によると、裁量刑は、罪の再犯を禁じるための矯正刑であり、文書偽造や詐欺、恐喝にも適用され、財産没収や投獄、鞭打ちなどが科される。
 岡倉徹志氏によると、神の命令に背いて犯罪に及んだ場合の刑罰は絶対的なもので、人間が勝手に刑罰を軽減することはできない。コーランには神に背く犯罪として姦通、姦通についての中傷、飲酒、窃盗、追剥ぎが挙げられており、シャリアでは姦通すれば石打の刑(既婚者。未婚者には百回の鞭打ち刑)、中傷と飲酒に対してはそれぞれ八十回の鞭打ち刑、窃盗罪には手足の交互切断が行われる。
 交互切断とは、初犯の場合は右手、再犯は左足、三犯は左手、四犯は右足の切断となる。追剥ぎ(強盗)は死刑、磔、手足の交互切断、あるいは国外追放。また、背教や国家(共同体)に対する反逆罪は斬首される。
 イスラム法の基本原則は、「目には目を、歯には歯を」の報復刑で、「やられたら、同じ方法でやり返す」のが当然とされる。ただイスラム法では、被害者が同程度の傷害を相手に仕返しする権利をなるべく行使しないように求めている。
 被害者側が権利を放棄すると、加害者側には〝血の代償〟としての賠償金を支払う義務が生まれることになる。実際は、賠償金の支払いで事件の決着が行われることが多いが、仕返しの権利を行使する例もある。
 コーランに基づいたイスラム法の厳格な適用を主張するイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」や国際テロ組織アルカイダなどの処刑からも、イスラム法の一端が分かる。
 六信五行の中にはないが、イスラム信仰の重要な概念の一つが「聖戦(ジハード)」。アルカイダやISなどは、「聖戦」を掲げて、少年らを戦闘員に育て、自爆テロなどの要員として利用している。
 渥美氏は聖戦について以下のように述べている。
 コーラン第二十二章「巡礼の章」七十八節に、「アッラーの道のために、限りを尽くし、奮闘努力しなさい」とあることから、聖戦は、「神の命令が完遂できないような環境が作られないように奮闘努力せよ」との意味だと解される。
 一般に、聖戦が適用される範囲は二つに分けられ、一つはイスラム世界の中に発生する破壊的環境・圧力で、イスラム教徒個々人の心の中に生まれた堕落・怠慢・腐敗との戦いで、これは「大ジハード」とも言われる。
 もう一つは、イスラム世界に対する外からの不当な干渉、軍事的圧力に対する対応で「小ジハード」とも言われる。内外の危機に対して奮闘努力することは、イスラム教徒の最も重要な義務となる。
 青柳氏は、「自らの命を犠牲にして行う自爆テロや対外攻撃の理論的裏づけとなっている」のがジハードで、イスラム教徒の最重要な思想の一つであると強調している。
 青柳氏によれば、聖戦という言葉が広まったきっかけは、エジプトのサダト大統領が、第四次中東戦争の時に対イスラエル戦の宣伝に使ったこと。本来、聖戦とは「神の道における努力」で、戦闘行為だけではなく、自分の心との戦いや福祉活動も意味したが、侵略者に対する防衛戦争が強調されるようになった。具体的には、パレスチナにおけるハマスによる抵抗運動、アフガニスタンにおけるソ連軍侵攻に対するタリバンとムジャヒディンによる抵抗運動、米国を敵とした9・11同時多発テロなどだ。
 今日では、イスラム教徒による異教徒に対する戦い、抵抗運動全てを聖戦と呼ぶ傾向になっていて、その源流は、イスラム主義における武装闘争の理論の創始者とされるサイエド・クトゥブ(一九〇六〜六六年)である。クトゥブは、エジプトで生まれたイスラム主義組織「ムスリム同胞団」のイデオローグで、政権打倒の武装闘争を肯定する方向に聖戦を理論化し、アラブ民族主義を掲げるナセル元エジプト大統領時代に投獄・処刑された。
 つい最近の事例は、アルカイダの指導者、アイマン・ザワヒリ容疑者が五月十三日、在イスラエル米国大使館のエルサレム移転を翌日に控え、イスラム教徒らに米国に対するジハードを呼びかけたことである。
 ところで、イスラム発生以前(ジャヒリーヤ時代)のアラビア半島では、死後の来世はないと考えられていたが、イスラム教が、終末における死者の復活、最後の審判、天国と地獄といった来世観をもたらした。
 コーランでは、現世の行いに応じて来世での運命が決まることが繰り返し警告されており、イスラム教徒には、現世以上に永遠の来世での幸福がより重要との認識がある。婦人章七十七節には「言ってやるがいい。現世の歓楽は些細なものである。来世こそは、アッラーを畏れる者にとって最も優れている。あなた方は、少しも不当に扱われないのである」とある。
 では、死後、どんなことが起きるのか? 青柳氏は以下のように解説している。
 人間は死ぬと、死の天使によって肉体から霊魂が抜き取られ、信仰者の霊魂は天国に飛んでいくが、不信仰者の霊魂は地獄に落ちていく。その後、霊魂は肉体に戻され、終末の日まで、墓の中でムンカルとナキールという天使からの審問を受ける。(墓の中の罰)
 世界に終末が訪れると、天が裂け、大地震が発生し(コーラン八十一章)、太陽が西から東に昇るなどの天変地異が起き、朽ち果てた肉体が蘇り、滅びた人間が生前の姿で復活する。
 その後、全ての人間が広場に集められ、最後の審問を受ける。生前の行為が書きつけられた帳簿が開かれ、善行と悪行が秤にかけられ、天国と地獄に振り分けられる。ただし、殺人などの重大な犯罪を犯して地獄に落とされた者でも、預言者ムハンマドによる神へのとりなしによって、天国に行ける可能性は残されている。
 天国では、たわわな実をつけた果樹が茂る下を清らかな川が流れ、涼しい木陰で美女に囲まれてご馳走を食べ、いくら飲んでも酔わない美酒を嗜み、伏し目がちな瞳のしとやかな美女を妻として楽しみ、最高の褒美として神の尊顔を拝することができる。
 一方、地獄では、火が燃え盛る火炎地獄で、ザックームの木という妖怪の木の苦い実を食べさせられ、熱湯を浴びせられ、火に焼かれる。(コーラン五十六章など)
 こうした来世観の前提には、肉体は一度滅んでも、全能の神の力によって生前の姿に蘇ることが可能だとの考えがある。
(2018年7月5日付740号)

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