「人権」の名のもと宗教が裁かれる時代

宗教で読み解く世界情勢(33)
平和政策研究所研究コーディネーター 小笠原員利

 同性カップルの結婚式へのケーキの提供を、信仰上の理由で拒むことは「性的マイノリティ(LGBT)への差別」か、それとも憲法上認められた「信教の自由の行使」なのか。六月四日、米連邦最高裁で下された判決では、その最終的判断は明確にされなかった。
 一応は、LGBT差別で訴えられていたケーキ店主ジャック・フィリップス氏が勝訴したのだが、最高裁が裁いたのは、フィリップス氏でも彼を訴えた同性カップルでもなく、フィリップス氏の行為を差別と判断したコロラド州人権委員会だった。最高裁は、公正であるべき人権委員会が、あからさまな宗教への敵意をもって審理に臨み、フィリップス氏から公正な審理の機会を奪ったと認定したのである。
 事実認定は以下のとおりだ。「同性婚にケーキ提供を拒んだのは、自らの信仰に基づくもので、差別ではない」と主張するフィリップス氏に対し、ある委員は「信教の自由は、ホロコーストや奴隷制など、あらゆる種類の差別を正当化するために用いられてきた」と言い放った。さらに「信仰上の信念はコロラド州のビジネス界では歓迎されない。この州で営業したければ妥協すべきだ」と迫った委員もいた。最高裁は、これらの発言を宗教に対する敵意の表れと判断。フィリップス氏の勝訴を言い渡したのである。
 この事例は、非常に大きな問題提起を含んでいる。それは、宗教に敵意を持つ人々が「LGBTの人権」の名のもとに信仰者を裁き、抑圧する可能性だ。敬虔な信仰者は、同時に厳格な性倫理を重視することが多く、同性婚に対する発言や対応は否定的なものになりがちだ。しかし、それらがおしなべて差別と断じられ、罰せられることになるなら、それこそまさしく逆差別であり、内心の自由の侵害である。
 実際に、フィラデルフィアでは、養子縁組を行うカトリック系奉仕団体が事実上の活動停止に追い込まれた。理由は、同団体が同性カップルに養子を斡旋しないからだ。しかし、彼らは同性愛者を差別しているのではなく、単に「子供たちは父親、母親のもとで育つのが最善」と考えているだけだ。こうした考え方は、一般的にも十分共感できるものだが、「宗教イコール偏見」と捉える人々にとっては、単なる「差別」としか映らない。
 果たしてこれは、被虐待児等の養子縁組に献身してきた同団体に対する適切な扱いだと言えるだろうか。宗教的な善意で行動する人々の自由を制約することは、社会全体にも大きな損失をもたらす。同団体は、養子縁組において市内で二番目の実績をもち、高い評価を受けていた。宗教に対する無理解や敵意をもって、良心にもとづく言動と差別的行為を混同すべきではない。
 こうした状況は日本でも現実になろうとしている。東京五輪を控え、小池都知事が、五輪憲章の理念を実現するために新たな条例を制定すると表明したからだ。その条例案には「性自認や性的指向等を理由とする差別の解消」がうたわれているが、具体的にどのような行為が差別になるのか、個人の宗教的信条や良心にもとづく言動がどのように扱われるのかは明記されていない。その判断基準は、おそらく日本人一般の平均的見解に近いものになるのだろうが、連邦最高裁が示したような宗教に対する理解や良識を、今の日本社会に期待することができるだろうか?
 ちなみに今月、米調査機関が公表した統計によると、日本で「宗教が非常に重要だ」と考える人はわずか10%にとどまった。これは調査された百六カ国中九十七位という低さである。さらに四十歳未満の成人に限ると4%(百五位)となり、最下位の中国(3%)とほぼ並んでいる。いまや日本は世界でも稀に見る非宗教的な国家なのだ。こうした社会においては、フィリップス氏やカトリック系奉仕団体のような考え方や行動は、ほとんど共感を得ることができないだろう。日本では敬虔な信者こそマイノリティなのである。
 テレビドラマ一つをとっても、LGBTはほぼ例外なく善良で愛すべき人物として描かれる一方、宗教信者は一般社会から遊離した怪しげで異様な人々として扱われる。こうした状況で、信教の自由に対する配慮を欠いたまま「LGBT差別禁止」が法制化されれば、コロラド州人権委員会のような状況が社会全体を覆うことになりかねない。それこそ、信者にとっては「生きづらさ」を感じる社会だろう。
 東京都の条例案に対する意見募集は六月三十日が期限だ。迫りくる信教の自由の危機に対して、声を上げる人は出てくるだろうか。
(2020年6月20日付739号)