イスラム法と教徒の信仰実践

カイロで考えたイスラム(5)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

祈るイスラム教徒たち

 イスラム教徒が日常生活の中で生起する物事への対処を考えるときに、重要な役割を果たすのがイスラム法(シャリア)だ。イスラム教徒の友人や知人が、結婚や離婚をする際に先ず相談する相手はシェイク(イスラム指導者)で、イスラム法から見てどう対処するのが正しいのかを尋ねる。
 国家の法律よりも「イスラム法に照らしてどうか」が大切で、それは自分がイスラム教徒であることを自覚し、イスラム教徒として正しくありたいと願っているからだ。「イスラム法を遵守することにより、来世で天国に行くことが出来ると信じている」(青柳かおる著『面白いほどよくわかるイスラーム』一三五ページ)のである。
 裁判所が被告に死刑を宣告しても、最終決定はイスラム指導者、グランド・イマームに委ねられる。これほどイスラム教徒の中に浸透しているイスラム法とは一体何なのか?
 イスラム法はアラビア語で「シャリア」と言い、その意味は「水場に到る道」。青柳氏は、「砂漠の中で水場に到る道こそ生き延びる道だったため、イスラム法は天国へと続く道とされた法体系を意味する」と解説している。酷暑の砂漠で暮らす人々の願望が込められている言葉なのだ。
 シャリアは、コーランに書かれている、ムハンマドがメディナで信徒たちから相談を受け、神の命に即した判断を下した内容の法的部分をまとめたものである。青柳氏は、「イスラム法は文章化されていない『不文法』であり、法学者が時代や土地柄、環境、社会の状況などに適用するよう解釈し、判断しているものである。『そういう意味では、決して、後進的でも頑迷でもなく、時代の進歩にも対応することが出来る』」と述べている。ただ、ムハンマドの言葉に固執し、時代によって変わる社会的価値観からずれる危険性もある。
 重要なのは、イスラム教の法に対する基本的な考え方だ。青柳氏によれば、イスラム教では、善悪は神が決めることで、決して人間の理性で判断すべきものではない、としている。イスラム法は神の命令であるが故に絶対に正しく、人間はそれを無条件に遵守すべきだ、となる。このような思考形式は、善悪は人間が理性で判断し、法律は人間が立法府で定めるとする近代法とは根本的に異なっている。
 コーランは、日常生活の全てを網羅しているわけではないので、コーランに書かれていない事例については、ムハンマドの言行録とされるハディースの法的部分も適用される。また、時代の変遷や支配地域の拡大によって、コーランにもハディースにもない事象に対する法判断が必要なときには「共同体の合意」とされるイジュマーや、「類推」とされるキャースも適用される。これら四つを法源に法源論を確立したのがイスラム法学者シャーフィーイ(七六七〜八二〇年)だ。
 イスラム法について岡倉徹志氏は、著書『イスラム 信仰・歴史・原理主義』で、「大きくは、信仰・儀式など、宗教に関わった規範と、日常の生活に関わる法的規範からなっている」と指摘している。
 「宗教規範は浄め、懺悔、礼拝、喜捨、断食、巡礼、葬祭に関するもの。一方の法的規範は、婚姻、離婚、親子関係、相続、契約、売買、非イスラム教徒の権利と義務、訴訟、裁判、犯罪、刑罰、戦争など、近代法で言うところの公法、私法が扱う事柄に関したものだ」(四六〜四七ページ)
 イスラム教徒の信仰と実践の基本が「六信五行」である。イスラム教徒が信じるべき対象を明確にしたのが六信で、イスラム教徒に義務付けられた信仰行動が五行だ。
 六信とは、唯一神、天使、啓典、使徒(預言者)、来世、神の予定の六項目を信じることである。第一に、神は唯一であり、世界の創造者、最後の審判の裁定者であると信じる。コーラン二章二五五節には「アッラー、彼の外に神はなく、永遠に自存される御方」とある。イスラム教では、人間はアッラーの奴隷で、主人アッラーに絶対的な服従を誓うべきだとする。イスラームという言葉自体が、「神への絶対服従」を意味し、「神にすべてを委ねる」という意味だからだ。全てを神に委ねた人を「ムスリム」と称している。
 第二は、神と人間の中間的存在として、神の手足となって働く霊的・天上的存在を信じることで、それには天地の終末まで神に背き、人間を誘惑する悪魔も含まれている。渥美堅持氏は「天使はアッラーに、ムスリムがイスラム教から外れて過ちを犯さないよう監視する命令を受けているから」天使は重要だとしている。(『イスラーム基礎講座』二六一〜二六二ページ)
 第三は、コーランをはじめハディース、モーセ五書(旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、ダビデの詩篇、イエスの四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を神から啓示された神の言葉と信じること。
 第四は、使徒(預言者)を信じることで、アダムからノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドなど二十四人を、神から言葉を預かった人として信じ、更にムハンマドを最後の預言者として信じることである。
 第五は、来世(死後の世界)の存在を信じ、来世では現世の行いに応じて賞罰が決まることを信じることだ。審判は終末の日に行われるので、審判の日があること(来ること)を信じることにもなる。更に、来世こそが本当の世界であり、現世は来世のためにあると考える。だから、来世を前提に現世の大切さを説いている。また、終末にはイエスが再臨するとしている(コーラン43章61節)。もっとも、イスラム教ではイエスをメシアとは認めておらず、預言者の一人としている。
 第六は、神が創造から来世までに生ずる全ての事をあらかじめ知っておられることを信じることだ。この世の全ての出来事は神の意によるものだとし、イスラム教徒には自分の意志は存在せず、全てが神の意向で決定されると信じている。
 五行とは、イスラム教徒に課せられた信仰行為である。第一は「神の他に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」との信仰告白をすること。これを言うことが、イスラム教徒の証明になる。
 第二は一日五回、神に礼拝をすること。夜明けの約一時間前、正午過ぎ、日没の約二時間前、日没の五分後、日没の約一時間後である。
 第三は喜捨で、義務的喜捨であるザカート(年所得の2・5%)と自発的喜捨のサダカがある。
 第四は、断食月に日の出から日没まで一切の飲食を断つこと。
 第五は、一生に一度はメッカに巡礼すること。「その地に赴くことが可能な者は」との条件が付いていて、絶対にというわけではない。
 さらに、イスラム教では人間の行為を五つの範疇に分類し、賞罰を課している。第一は義務行為で、礼拝や断食、夫婦の扶養と神への服従など。第二は推奨行為で、自発的喜捨や奴隷の解放、結婚など。第三は許容行為で、売買や飲食など日常生活の大部分の行為を指す。第四は忌避行為で、離婚や避妊、中絶などが好ましくない行為と定められている。第五は禁止行為で、殺人や偶像崇拝、棄教、飲酒など。
 罰則規定があるのは第一の義務行為と第五の禁止行為だけで、それ以外に対してはない。
(2018年6月5日付738号)