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[2018年12月10日号 社説]

新しい天皇の御代に向けて

明治維新からの百五十年を概観すると、日清・日露の大戦を経て日本が欧米列強の最後列に加えられ、近代国民国家として認められるに至った大きな要因は、自ら立憲君主の体現に努められた明治天皇にあると言えよう。
 十六歳で維新を迎えた明治天皇は、御所の中だけの女官に囲まれた生活から解き放たれ、西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文らと共に、新しい国づくりに臨まれた。彼らが描く立憲君主国という体制で、天皇が果たすべき役割、目指すべき人格を、驚くほど意欲的に吸収し、急速に成長していかれたのである。
●明治天皇の自己形成
 維新後の日本がどうなるか、国民の大部分が疑心暗鬼の中で、新しい国を目に見える形で示したのが、明治五年に始まる明治天皇の全国巡幸であった。天皇の姿を目にすることで、日本国民という意識が形成されたのである。これが、後の日清・日露の大戦勝利、そして条約改正に結びつく。
 早期に洋装を取り入れながら、執務を終えると和装に戻ったように、明治天皇は東洋的な君子と開明的な立憲君主の両面を一つの人格に統合されていた。それ故、日清戦争の開戦の詔勅を発しながら、「朕の戦争にあらず」と平和を求める本心を示されている。日露開戦に際しても、「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」と詠まれた。平和を追求することが文明国の条件だと理解されていたからで、世界には戦争願望の強い皇帝たちが多い中で、明治天皇の平和主義は際立っていた。そして、立憲君主としての言葉に加えて、御製を通しその本心を国民に明かされてきたのである。
 立憲君主は政治に参加できないが、警告、激励、被諮問(相談を受ける)の三つの権利があるというのが英国の憲政論で、これらにより、政治に良い影響を及ぼすことが求められるのである。そのことをよく理解していた明治天皇は、憲法制定の会議にも積極的に参加され、天皇がご臨席するだけで座が緊張感に包まれたという。
 日露戦争開戦の明治三十七年、明治天皇は「こらはみな軍(いくさ)のにはにいではてて 翁やひとり山田もるらむ」と詠まれた。旅順攻略戦で多くの戦死者がありながら、国民の間に厭戦の声は起こらず、この歌が発表されると、人々は天皇の聖徳を感じ、それぞれの仕事に励んだという。天皇と国民との心のつながりが、生まれたばかりの国を支えていたのである。
 日露戦後の歌「国のためたたれずなりし民草に めぐみの露をかけなもらしそ」からは、国民一人ひとりに対する祈りを感じる。近代国家の条件である憲法と議会、そして国軍は、明治天皇の人格によって命を吹き込まれた面が大きい。
 神武天皇以来の伝統を受け継ぎながら、悪意に満ちた帝国主義時代の世界に対峙し、あるべき天皇像を自ら追求された明治天皇の歴史は、大正、昭和を経て平成の時代にも引き継がれてきた。
 今上陛下が災害などで被災し、悲しみの淵にある人々に、ひざを折り、手を差しのべて慰めの言葉を語り、一人ひとりの声に耳を傾けられるのも、いつしか自然な振る舞いに見えるようになってきた。不変の根幹があるが故、いかなる状況にも対応することができたのである。
 平成元年から三十年までの八月十五日の全国戦没者追悼式の「おことば」では、「戦没者を追悼し平和を祈念する日に当たり……」と、「平和を祈念する日」というご自身の祈りを必ず付け加えておられる。これは明治天皇の平和主義を汲むものであり、来年五月に始まる新しい天皇の御代にも引き継がれていくであろう。
●国民の側の努力は
 歴史的に天皇の変わらない本質の一つは、民と共にある姿勢で、憲法の言葉を借りれば、国民統合の象徴である。その国民の側の統合を進め、意見を集約していく仕組みが議会や政党政治なのだが、理想には程遠いのがわが国の現状である。国民の側には、さらに真摯に議論を深めて問題の本質を見極め、あるいは妥協点を見いだす努力が求められよう。日本という国づくりはまだ途上にある。



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