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[連載・岡山宗教散歩 No.5]

法然 (5)/母への思いが女人往生の教えに

 誕生寺の北、2キロ余りの津山に向かう旧街道の脇に「都原(みやこばら)」の石碑と「仰叡の灯(ぎょうえいのひ)」と呼ばれる灯籠が建っています。岡山県美咲町の当地は、法然の母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自が、勢至丸(法然の幼名)の都への旅立ちを見送ったことから「都原」と名付けられ、毎日、この地に灯を灯し比叡山にいる我が子の無事を祈ったことから、そう呼ばれています。
 法然上人誕生850年を記念して建てられた顕彰碑には、母が詠んだ「かたみとてはかなきおやのとどめして この別れさえまたいかにせん」との歌が刻まれています。夫が殺され、その忘れ形見の息子とも別れなければならない母の哀しみが偲ばれます。ここから都までは出雲街道を経て50里(200キロ)、比叡山までは55里余です。
 誕生寺の寺伝によれば、秦氏君は久安3年(1147)11月12日に病没となっています。母は叡山の法然にたびたび手紙を書いており、誕生寺には死の前日に書かれたという手紙の写しが伝えられています。
 長岡京市の粟生光明寺の御影堂には、本尊となっている「張り子の御影」があります。この御影は、流罪になった法然が、その途上弟子の湛空に出会い、肌身離さず持っていた母の手紙を取り出して、ともに作った御影だと伝えられています。もとは湛空が住職を務めた二尊院にあったものがいつのころからか光明寺に移され、今は光明寺御影堂の本尊となっています。
 誕生寺の寺伝によれば、法然の母の死は法然が15歳の時ですが、『醍醐本』には、このころ法然の父が殺されたと書かれています。梅原猛氏は、母の死と父の死は同じ頃だっただろうと推論しています。『知恩伝』などには、法然の師観覚が法然の母と上洛して法然に会う記述があり、久安3年の病没ではないことになります。梅原猛氏は「観覚が上洛したのは確かだが、法然の母はすでに亡くなっていた」との見解を示しています。
 いずれにせよ、切ない母の手紙の記録や「仰叡の灯」の逸話を合わせてみれば、遠い叡山にひとり息子を送った母の気持ちが痛いほどわかります。
 私も15歳の時に父が亡くなり、母の手で大学に行かせてもらいました。最近、そのころの母の手紙が出てきたので読み返すと、当時の母の気持ちが伝わり、涙があふれました。子を思う母の心はいつの時代でも変わらないものです。
 法然の教えで特に重要なことの一つは「女人往生」です。これには法然の母への思いが深くかかわっています。女人の救いについて説かれた仏典はほとんどありませんが、唯一、浄土三部経の中の無量寿経に女人往生の記述があります。「法然の母への思慕とその結果としての『女人往生』の思想が法然の専修念仏の教えに決定的な影響を与えている」と梅原猛氏は『法然 十五歳の闇』(角川文庫ソフィア)で述べています。
 法然が誕生した時代は、藤原摂関家の権威が失墜し、地方では「悪党」と呼ばれた武士集団が荘園領地を巡ってし烈な争いを繰り広げていました。その後、都では平家や源氏が台頭し源平の合戦を経て武家政治が始まります。
 法然の父は稲岡荘という荘園領地をめぐる争いの中で命を奪われました。争いで人の命が奪われ、親や兄弟や我が子を失う、まさに仏法で予言された末法の時代でした。そのような時代の悲哀を直接自身で味わったのが法然で、言い知れない哀しみの中から浄土を目指す心の探求を続けたのです。
 醍醐本によれば、父の死を知らされた法然は、師の叡空に隠遁を願ったとされます。比叡山での法然の師は源光、後に皇円、叡空に師事したと多くの法然伝ではされていますが、梅原猛氏は「醍醐本から見て法然の師は叡空一人だったのでは」と書いています。
 隠遁を願った法然に叡空は「隠遁するとしても無知はよくない」として天台三大部を学ぶことを勧めました。(『醍醐本別伝記』による)以来、法然は黒谷の経蔵に籠り徹底的に読書に励んだのです。比叡山西塔北谷の黒谷青龍寺を訪れると、静寂な谷合はまさに隠遁の地、別所の雰囲気です。
 法然はここで一切経を五度読破しています。しかし、法然は黒谷で経典を読むだけの日々を過ごしていたのではなく、疑問は何度も叡空に尋ね求め、たびたび論議もしたようです。時には師を論議で打ち負かしたこともあったと、多くの伝記に記されています。

〔バックナンバー〕04/030201


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