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[連載・カイロで考えたイスラム No.14]

史上最大の思想家ガザーリー

 古典スンニ派思想の完成者で、イスラム史上最大の思想家とされるのがガザーリー(1058─1111)である。彼が生まれたのはペルシャ、ホラーサーンのトース付近の小村ガザーラ。ホラーサーンで法学の基礎を学んだ後、ニーシャープールに来て、イマーム・アル=ハラマインの門下に入ると、たちまち同輩・先輩をしのぎ、ハラマインの代講をするほどになる。1085年に師が亡くなると、宰相ニザーム・アル=ムルクの後援を受け、イスラム哲学やアリストテレス学派の思想を研究し、1091年には当時の最高学府バグダードのニザーミーヤ(ニザーム学園)の教授になった。名実ともに神学・哲学の最高権威で、多数派であるスンナ派学の最高権威である。
 ところが数年のうちに、彼の心中に大きな疑惑が台頭し始め、理性と信仰の矛盾に突き当たった。1095年、彼は教授の地位を他に譲り、真理を求めて彷徨生活に入る。約10年間、メッカ、ダマス、エルサレム、アレキサンドリアなどを巡り、「瞑想によって神と直接触れるのでなければ、決して真の救いは得られない」ことを確信したとされる。宗教は体験されなければならないと主張し、「いたずらに伝統的教えのみに固執して悟性を無視するものは愚人であり、悟性のみに頼ってコーランとスンナを顧みぬ者は迷っている」とした。
 ガザーリーは、信仰の儀式化であるパリサイ主義に反抗し、信仰を個人の心の底深くに求めたのだ。
 井筒氏は「ただ、ガザーリーはその目的のために、信仰の個人化、内面的深化の必要性を叫んだのみであって、決してイスラム神秘主義(スーフィズム)に走った訳ではない」と指摘している。
 スーフィーは個人的、内面的な深い体験を語るが、それは常に個人的体験から一歩も出ていないとし、「スーフィー達の言葉には常に欠陥が付きまとう」と批判した、すなわちガザーリーは、何の規範もなく一人一人が勝手なことを言うに過ぎない通俗的スーフィズムに満足できず、常に自分の深い体験を反省し、分析
してやまなかった。こうして彼の教義は次第に明確な形に組織付けられ、有名な『宗教諸学の甦生』としてまとめられる。
 井筒氏は、「ガザーリーはイスラームと信仰を区別した」と言う。すなわち、神が唯一であることと、ムハンマドが神の使徒であることを口に唱し、定められた礼拝その他の宗教の規則を犯すことなく一生を送る者は立派なイスラム教徒ではあるが、それだけでは信仰人ではない。信仰は深い個人の体験で、心で信じなくてはならない。何ら体験するところもなくて、単に一定の宗教上の務めを守っているだけの人は「屋根の上に燈を乗せて、外側だけは明々と輝いているが、内は真暗な家の如きもの」だと述べた。
 ガザーリーは幼い頃から父母の宗教を受け入れ、父母や教師が教えるものをそのまま信じることに、強い疑問を抱いていたという。その種の信仰は極めて強力だが、その強さは決して信仰の強さではなく、盲目的従順からくるにすぎないと断じた。そして、その信仰は、自己の無力の絶壁に立たせられた絶体絶命の精神が一挙に飛入する、法悦の宗教的体験とは非常に縁の遠い世界である、とした。外から押し付けられた信仰は絶対不動の信仰とは称し難い。大衆の信仰はそれでよいが、真の信仰ではない、と断じたのだ。
 井筒氏は、ガザーリーを論じる人が誰でも引き合いに出す有名な言葉を紹介している。
 「ザイド(人の名前)が家にいるかどうか」という場合、もし信頼する人が「ザイドは家にいる」と教えてくれると、ザイドは家にいると確信して疑わないのが大衆の信仰に該当する。
 これに対し、もし自分でその家に行ってみると、内からザイドの話し声がするので、ザイドは家にいると信じるのなら、それは思弁神学者の信仰に当たる。しかし、実際に家の中に入って自分でザイドを見た訳ではないので、間違っている
かもしれない。
 これに対して、自分で家の中に入り、ザイドを見ると、前の2つとは全く性質を異にする。真の信仰とはこのようなもので、個人の絶対的体験がなければならない、と主張した。
 井筒氏が最後に強調したのは、ガザーリーの「人間は神を愛することが果たして可能であろうか」との問いに対する解答の見事さだ。
 彼以前の神学者のほとんどは、人間が神を愛することは比喩としてのみ可能であり、実在性はないとしていた。神を愛するとは、神の掟や命令に背かないこと、神への従順を意味するにすぎない、と。その理由は、人間の愛の対象は、認識でき、感覚的に捉えられるものでなければならず、愛は直接間接に自己の存在に関係を有する限りにおいてのみ成立するので、全く類を異にする存在間には成立しないからだ。
 それに対しガザーリーは、人が心から誰かに服従するには、必ずその人に対する愛が先行しなければならないとして、「服従とは愛から始めて生ずるものであり、愛の果実だ」とし、愛は認識する人間の側に主体性があるから、人間から神への愛は可能だと主張した。
 井筒氏は、ガザーリーの史的意義は、固形化した信仰を再び個人の心の温床に移すことにより、その生命を甦らせようとしたところにあると指摘し、「我々の全精神を傾倒して神のみを完全に愛するならば、この愛は神以外の者に対する排他性の故に、正にその故に、神に属する全ての者、神によって創られたあらゆるものを偏愛することになるのである。我々は神のみを純粋に愛することによって、全てのものを、全ては神の被造物なるが故に愛することが出来るのである」と主張したガザーリーを評価した。
 ガザーリーは、ある人が相手をこよなく愛するならば、彼は愛の直接の対象者のみならず、相手に属する全てのもの、家族や親族、隣人、飼い犬まで愛さずにはいられないとも指摘した。
 彼は、神への愛による社会愛という観念をイスラームに導入した人としても評価されている。ガザーリー研究で著名な青柳氏は、彼を「イスラム思想史上最大の思想家」で、「古典スンニ派思想の完成者」と称した。現代のイスラム世界においても思想的権威とされ、ウラマーたちはファトワを出す際、彼の見解を参照
にすることが最も多いという。

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