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[2019年2月10日号 1面記事(1)]

京都・護王神社の初詣

災害のない亥年に/初詣客は平年の10倍以上

護王神社に列を成して初詣


 好天に恵まれた京都の元旦。狛イノシシが参拝者を迎える京都市上京区の護王神社には、亥年とあって平年の10倍を超える初詣客(写真)が詰めかけた。烏丸通をはさんで京都御苑の西隣。ここに同社が鎮座したのには、幕末から明治に至る日本の歴史がかかわっている。

 護王神社本殿に祀られているのは、奈良時代から平安時代にかけて活躍した和気清麻呂と姉の広虫など。清麻呂は皇位に就こうとする法王・太政大臣の道鏡に抵抗し、「皇位に就けるのは皇統の者のみ」との宇佐八幡宮の神託を引き出して皇統を守り、さらに長岡京・平安京遷都に尽力した人物。最初、宇佐八幡宮への使者に命じられたのは、女帝・孝謙天皇の信任厚い女官の広虫だったが、女性に長旅は無理との理由で弟が推挙された。
 野望が打ち砕かれ、怒り心頭の道鏡は、清麻呂の脚の腱を切り大隅国(現鹿児島県)に追放する。その道中、清麻呂は刺客に襲われるが、その時、どこからともなく300頭のイノシシの大群が現れ、刺客を退散させた。そのおかげで清麻呂は命拾いをし、イノシシに守られて宇佐八幡宮に参拝した。イノシシは清麻呂の命の恩人であり、足腰の守り神なのである。
 古代史家の平野邦雄・東京女子大学名誉教授は、豊前(大分)には、イノシシの皮を被って祭祀を行う習俗がある秦氏ゆかりの氏族がいて、清麻呂を助けたのであろう、と解釈している。(『和気清麻呂』吉川弘文館)
 秦氏は土木や養蚕、機織などの技術で全国に土着した渡来人。秦の始皇帝の末裔で、百済から渡来した弓月君が祖との説もあるが、聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅系とされ、古代史の謎の氏族である。清麻呂が生まれた備前(岡山)も秦氏の史跡が多く、浄土宗の宗祖・法然も秦氏の出身である。
 清麻呂がインフラ整備に従事した長岡も秦氏の拠点で、京都市西京区にある松尾大社は秦氏の氏神。長岡京が10年を超えても完成せず、財政が行き詰まった桓武天皇に、平安京への変更を進言したのも清麻呂で、現地を視察した桓武天皇の決断を受け、河川改修などにまい進した。
 その後、清麻呂が氏寺として神願寺(じんがんじ)を建立すると、桓武天皇は同寺を鎮護国家を祈る官寺に準じる寺とした。清麻呂の死後、子孫が移築したのが高雄寺で、後に真言宗の神護寺(じんごじ)となる。政治と癒着した奈良仏教を嫌った桓武天皇の意向を受け、和気氏は最澄や空海を神護寺に招き、平安仏教の興隆に貢献している。その高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、「護法善神」と称されていたのが護王神社の前身である。
 幕末の嘉永4年(1851)、孝明天皇から清麻呂に正一位護王大明神の神号を賜ったことから、明治7年に「護王神社」と改称し、別格官幣社となる。別格官幣社とは明治政府が定めた神社の社格の一つで、国家に功労のあった人物を祀るもの。明治5年にできた楠木正成を祀る湊川神社が最初で、昭和21年に社格が廃止されるまで28社が造られた。護王神社は明治19年に明治天皇の勅命で華族の邸宅跡地を授かり、社殿を造営。神護寺境内から遷座し、後に広虫も主祭神として合祀した。
 松尾大社権宮司から平成9年、護王神社宮司に就任した文室隆紀(ぶんや・たかとし)師は、10年に清麻呂公没後1200年祭を挙行。境内に公の銅像を建て、神社の外周に生涯の絵巻を掲示し、啓蒙活動に力を入れてきた。その結果、就任当時は寂れていた同社が「皇統を護るとともに、足腰の守護神としても全国に知られるようになりました」と語る。足腰の弱い人が多い高齢社会を迎え、清麻呂の月命日である21日の午後3時から本殿で、足腰の健康安全を祈願する「足腰祭」を行っている。
 初詣に向け、本殿前の石段に板のスロープを張るなど、けが人が出ないよう配慮。「亥年は1923年の関東大震災、59年の伊勢湾台風、95年の阪神・淡路大震災と天災が多いので、穏やかな年になってほしいと祈っています」と顔を引き締めた。


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