治水と統治に龍神信仰の力

連載・神仏習合の日本宗教史(21)
宗教研究家 杉山正樹

ナーガ族の王に横たわるヴィシュヌ神とラクシュミー

 わが国の龍神信仰は、中国古代の龍信仰が弥生時代後半に伝搬、縄文時代に淵源を持つ蛇神信仰と習合することで、日本独自の宗教文化の一つとして定着した。本年の干支・龍(辰)にちなみ今回は、日本人の心性に根付く龍神信仰について考えてみたい。
 脱皮を繰り返す蛇の生態は、「死と再生」のシンボルとして古代人の目に鮮烈に映っていた。毒を以て敵を一撃にする破壊的な攻撃力、男性器を模造したかのような四肢のないその姿に、古代人は生命の根源的なインスピレーションと畏れを感じたに違いない。自然崇拝の対象として蛇が第一義に選ばれた理由がここにある。民俗学者の吉野裕子は、絡み合う蛇の生殖に注連縄を看取し「古代日本人の清浄観は、蛇における脱皮新生にあり、身殺(みそ)ぎこそ生まれ清まる証であった」と独自の禊観を説いている(『蛇・日本の蛇信仰』講談社学術文庫)。
 縄文時代中期塑像と比定される土器の中には、取手に蛇を象ったものが確認される。また、紋様に蛇を装飾するものも少なくない。南方熊楠は『十二支考』で「蛇の伝説は無尽蔵」と述べたが、事実、蛇に纏わる信仰は世界の各地にみられる。ミノア文化やギリシア文化に先行したヨーロッパの原郷ともいうべき文化、「古ヨーロッパ」の土器に施される渦巻紋は、水と蛇の一体化・生命と豊穣のシンボルであった。「縄文土器のそれは、火焔ではなく実は水紋であり蛇紋である」という近代の考察は、これを指し的を射ている。
 湿地を好む蛇は、水神の神使もしくは水神そのものとされた。哲学者タレスは、「水は万物の根源」と説いたが、生きとし生ける者すべてこれに拠らないものはない。水田耕作を基本的な生業とするわが国において、蛇神がその生産に不可欠な水を司る神として信仰され、豊穣と繁殖のシンボルとなり農耕生産と結びついたのは自然な流れであった。

大神神社の注連縄

 龍の由来についてはどうであろうか。わが国には、元々、龍(の概念)は存在していなかった。仏教発祥の地インドにおいてもまた同様で、猛毒を持ち脱皮を繰り返すコブラは「死と再生」をテーマとするインド土着の宗教観に取り込まれ神格化されていた。仏教が興りこれを仏法の守護神・多頭の蛇「ナーガ」として受容する。ただしインドで蛇は遂に龍化しなかった。
 東方の龍と西方のドラゴンの違いに着目した研究で知られる科学史家の荒川紘は、「龍は政治化された蛇である。(中略)インドには大型のキングコブラが棲息、エジプトには猛毒をもつコブラが棲息していたため、あえて特別な怪獣を想像する必要はなかった。」(『龍の起源』角川ソフィア文庫)と分析する。中国に伝搬した「ナーガ」は、仏教の守護神となり道教固有の五龍信仰と習合、皇帝の権威の象徴としてより純化されていった。
 銅鐸や銅鏡に龍の紋様が刻まれることから、弥生時代後期には中国の龍のモチーフがわが国に持ち込まれていたとされる。平安密教の隆盛と共にこのモチーフを用いた祈雨修法が執り行われる。爾来、蛇神と混淆した龍神信仰は、多様な宗教文化として開花して行く。河童や案山子などもその一例であるという。鎌倉時代以降、梵鐘・寺院の天井画・襖絵などに雲竜図が描かれ、武功を祈るために武具や旗印・家紋などにも龍の図案が取り入れられていく。
 各地に遺る龍神伝承の多くが、徳の高い行者に調伏された龍が改心し仏法に帰依、水源や湖水周辺に暮らす人々を護る聖獣として描かれる。荒れ狂う龍は、氾濫を繰り返し治水を困難としていた当時の河川、或いは先住の民の抵抗の表象であったのかもしれない。インドの「ナーガ」も元は、「アヒ」と呼ばれる部族の呼称であり、インドラ神が調伏した邪神との位置づけであった。『古事記』の八岐大蛇伝説もこうしたトーテムに倣うものではないか。

玉造温泉の八岐大蛇像

 治水と先住の民の問題は、古今東西、人類恒久のテーマであった。雨量が多く急峻な地形が連なるわが国において治水の問題は、為政者を常に悩ます過酷な自然との闘いであった。先住の民の問題についてはどうであろうか。朝廷が国を統一する過程で、部族間の様々な抵抗と対立に苦慮したであろうことは想像に難くない。
 治水と先住の民の問題の本質はどこかで通底し、これが「龍神」に表象されているのではないかと筆者は考える。「和を以て尊しと為し」「尽くし柔す」を統治の理念とした先人の智慧と苦労に思いを致す。「雲は龍に従い風は虎に従う」(『易経・乾為天』)。日本列島を鳥瞰すると龍の形が浮上するが、卓越したリーダーの出現を待ち望みたい甲辰令和6年である。
(2024年1月10日付 807号)