浜松城の隣に「出世神社」

連載・宗教から家康を読む(4)
多田則明

浜松城にある家康の人形

 一向一揆を制圧することで三河東部も従えた家康は、実質的に三河全体を統治する戦国大名になった。その後、29歳の時に遠江国(とおとうみのくに)の浜松城を修復し、17年間城主として三河・遠江・駿河を領有する大大名に出世する。
 浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城(ひきうまじょう)で、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。
 永禄4年(1561)、家康は織田信長と和睦し、今川氏と断交して信長と「清洲同盟」を結ぶ。翌年には、家康と信長は会談して関係を固め、家康は義元の「元」の字を返上し、元康から家康と名を改めた。今川から織田に乗り換えたのは、要請しても今川氏真(うじざね)が援軍を送らず、信長の方が頼りになると判断したからだ。
 家康が拠点を曳馬城に移したのは元亀元年(1570)で、浜松城と改称し、城域を拡張、改修し、城下町を整備した。浜松城は岡崎城と同じ、石垣ではなく土塁で守る土造りの城で、合理的な家康の思想を反映している。当時の石垣は勾配が緩やかですきまが多く、人がよじ登りやすかったため、防衛には欠点があった。その点、土塁の方が登りにくかったのである。
 今の浜松城は野面積みの石垣が有名で、歴代城主の多くが江戸幕府の重鎮に出世したことから「出世城」といわれた。江戸時代の浜松城主は9家22代に引き継がれて、歴代の城主によって城域の改変・改修が進められ、堀尾氏が創建した天守は17世紀に姿を消し、天守台のみが現在に伝わる。
 浜松城時代の家康は籠城戦よりも野戦が得意で、信長の命で各地の戦闘に参加し、後に「海道一の弓取り」と呼ばれるようになる。驚かされたのは浜松城にある家康のリアルな人形で、まさにそんな雰囲気を漂わせていた。

浜松城の隣にある元城町東照宮

 浜松城の隣、小高い丘に明治19年に創建された元城町東照宮がある。現在では、「出世神社」と呼ばれ、多くの参拝者が訪れるという。ここにはかつて家康が浜松に入ってから浜松城を現在の位置に築くまでの間、暮らしていた引間城があった。
 当時の引間城主は今川に仕える飯尾連龍(いのおつらたつ)で、その死後は妻のお田鶴の方が城を守っていた。お田鶴の方は徳川軍と果敢に戦い、侍女18人とともに討ち死にしている。お田鶴の方と侍女は手厚く葬られ、椿の木を植えて供養したという椿姫観音が近くにあり、敵方も丁寧に葬るのが戦国時代の一般的な倫理であった。
 引間城は後に遠征してきた豊臣秀吉が訪れており、2人の戦国武将を天下人へと導いた城であることから、その城跡に建てられた神社を、人々は「出世神社」と呼ぶようになった。明治時代は一般的に倒した徳川に否定的だったが、家康に親しみ深い浜松の人たちは、郷土の英雄として称える気持ちが強かったのだろう。
 出世神社のことは浜松城に行くまで知らず、時間があったので訪れたのだが、これも現地取材の余禄で、足を運ぶことで予想外の出会いに恵まれるのがいつもの楽しみだ。
 元城町東照宮は家康の信仰というより、出世する英雄のエネルギーと運にあやかろうという庶民の気持ちが興味深い。確かに、幸運を招くには運の良さそうな人と親しくなるのが近道である。
(2023年7月10日付 801号)