賀川豊彦 戦後の天皇制存続に貢献
連載・愛国者の肖像(8)
ジャーナリスト 石井康博
賀川豊彦は明治21年(1888)に神戸で回漕業者の賀川純一と愛人・菅生かめの子として神戸市で生まれた。裕福な家庭で育ったが、4歳の時に相次いで両親を失くし、徳島にいる父親の本妻の元に引き取られた。愛人の子であることから周りから陰口をきかれ、孤独な少年時代を過ごしたという。同33年に旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に入学した賀川は、アメリカ人宣教師のローガン博士とマヤス博士に出会い、彼らの人柄に惹かれ、キリスト教徒となった。
明治38年に明治学院高等部神学予科に入学。賀川は図書館に籠り、分野を問わず読書を重ねた。19歳の時に愛知県で伝道活動をしていた時に結核にかかり喀血し、生死の境をさ迷うが、周囲の祈りと看病によって奇跡的に一命をとりとめ、回復した。同40年に神戸神学校に入学すると「自分は結核にかかった身であるから、いつ死ぬかわからない。それならば貧しい人々が住む場所に移り住んで、ウエスレー兄弟のように命の続く限り救援活動をしよう」と神戸の貧民街に住み、ボランティア組織「イエス団」を通して様々な救済活動を行った。後にベストセラーになり、世界中に翻訳された賀川の自伝的小説『死線を超えて』はこの時の体験がもとになっている。
貧民街での活動を支えていた芝ハルと結婚した後、自身の救済活動に限界を感じた賀川は、その答えを求めて、大正3年(1914)にアメリカのプリンストン大学・神学校に留学する。そこで賀川はアメリカで行われている労働運動、社会運動を目の当たりにして、目の前で苦しんでいる人々を救うだけではなく、社会の仕組みを変えないと人々が幸せになれないと考えるようになった。帰国後、無料診療所を開設し、また「救貧から防貧へ」をスローガンに、労働運動、農民運動、生活協同組合運動など、社会運動を始め、また普通選挙運動も行い、大正デモクラシーの先頭に立った。
同12年9月1日に関東大震災が発生すると、西日本で義援金を集め、東京に行き、被災者の救済に奔走した。同13年には全米大学連盟に招待され、以後、海外での伝道活動や講演を通して賀川の名は世界に知られるようになった。その後は宗教活動に比重を置き、「百万人の救霊」を目標として「神の国運動」を提起、福音伝道のために全国を巡回した。
賀川の社会運動はキリスト教の博愛主義によるもので、非暴力・平和主義が基本であり、共産主義、ファシズムを否定している。賀川の世界的な著書に『ブラザーフッド・エコノミクス(友愛の政治経済学)』がある。そこでは資本主義でも共産主義でもない「第三の道」として、「人格」と「友愛」による協同組合運動を通した社会改造が必要だと主張。世界がその「協同組合国家」で再編され、連帯していけば、平和で平等な社会が実現できると説いている。
昭和16年、日米関係が悪化すると、近衛文麿首相から密命を受け4月、ルーズベルト大統領に会って戦争を回避するため渡米した。その際、リバーサイド日米キリスト者会議に参加、「アメリカ教会への感謝状」を贈っている。帰国後は戦争回避のために祈り、反戦を唱えたことで憲兵隊に拘束されることもあったが、次第に様々な形で国に協力するようになった。
戦中、戦災者の救援に当たっていた賀川は、戦後、東久邇宮首相の要望で昭和20年9月5日、内閣参与に登用された。首相に、敗戦後の国民の道義心の向上と国際社会への復帰という二つの課題に取り組むよう要請され、道義新生会と国際平和協会を立ち上げた。また、賀川は同年8月30日、当時の読売報知新聞に「マッカーサー総司令官に寄す」という長文の公開書簡を書いている。それは日本という国が天皇陛下を中心として一つになっている国であることを訴え、天皇制の維持を主張し、天皇の戦争責任を追及する勢力を牽制する内容であった。
賀川は弱者、貧民の保護者である天皇を中心とした国家である方が、国民が一つになり、社会が安定すると考えていた。そして著書『デモクラシー─民主主義とは何か』(時事通信社)などを通して天皇制存続論を展開した。国民から尊敬されていた賀川が天皇制の存続を徹頭徹尾訴えたことにより、GHQ(連合国軍総司令部)や国民に大きな影響を与え、それが新憲法下における天皇制の維持につながった。
また、賀川は戦争を防げなかったことを悔い、平和運動を積極的に展開した。尾崎行雄を総裁として同23年に設立された「世界連邦建設同盟」の副総裁に就任し、衆議院議長の松岡駒吉を説得して議員連盟を結成。同24年に「世界連邦日本国会委員会」が発足すると、賀川は顧問に就任した。
昭和22年と23年にはノーベル文学賞候補に、同29年、30年、31年、35年にはノーベル平和賞候補に推薦された。GHQでは総理大臣に推薦する動きもあったという。昭和35年4月、療養中の東京・松沢の自宅で死去、享年71。社会的弱者と貧民の救済のため、日本のため、世界平和のために捧げた生涯だった。
(2023年5月10日付 799号)