大黒天─忿怒から笑みの神へ

連載・神仏習合の日本宗教史(11)
宗教研究家 杉山正樹

マーハカーラ

 打出の小槌を片手に、満面の笑みをたたえる大黒天。大きく張り出した耳朶で米俵に立つその姿は、福々しいことこの上ない。弁財天と並ぶ七福神の一柱で、インド由来の神様でもある。
 大黒天はもともとインドの破壊と創造の最高神シヴァ神の化身の一つで、梵名「マハー(大いなる)カーラ(暗黒)」(密教名・摩訶迦羅天)」と呼ばれた。シヴァが世界の破壊を司るとき、この姿を執るという。
 姿態は黒く頭髪を逆立て、三面六臂の恐ろしい戦闘神の姿で描かれる。長尺の剣を持ち、憤怒の表情で剥いだ象の皮を纏う。その姿は、異形の大魔神という他はない。『大日経疏』では、鬼人夜叉の棟梁として大日如来から荼枳尼天の調伏を命じられたと記される。大黒天の神通力は苛烈強大であるため、陀羅尼で自身を加持護法しなければならない。さもなければ、取引する者の血肉を代価として奪い去るという。
 私たちが思い浮かべる大黒天のふくよかな姿は、鎌倉から室町時代にかけて像容され、江戸時代において一般化したものである。「マハーカーラ」が仏教に取り入れられてのち、天部に属し寺を守護する護法善神となるが、入唐僧がわが国に移入する頃には、既に厨房を護る神に変容していたという(笹間良彦『大黒天信仰と俗信』雄山閣)。
 わが国で大黒天が最初期に祀られた比叡山延暦寺では、一面二臂の姿で政所(食堂)に据え置かれ、その表情は沈痛気味でうつむき加減であった。最澄が入唐求法を終え帰朝した折、大黒天を感得し一日に千人分の食料を調達することを約束した。比叡山には三千人の僧侶がいるので、三面の大黒天を祀ることを請願し、三千人分の食料を調達してもらうことになったという。

三面大黒天

 大国主命の「大国」と「大黒」が「だいこく」という音で通ずることから、大国主命と大黒天は次第に一体視される。やがて、二神が習合した大黒天像が作られるようになり、これが全国に広まっていく。大国主命の殖産の功徳と白兎伝説で伝承される温和な人柄、眷属として仕えた鼠の働きが神像に取り入れられ、当初の憤怒相から満面笑みを浮かべた“すがしい”表情に変容する。甲子の日が大黒天の縁日とされている理由も、大国主命と鼠の機縁に由来している。豊穣と生殖のシンボルである小槌と米俵が神像に加えられ、私たちに馴染みが深い「大黒様」が誕生した。
 時に大黒天は、弁財天・毘沙門天と合体し三面大黒天として祀られる。最澄が祀ったのもこの三面大黒天であった。豊臣秀吉が念持仏としたのもこの三面大黒天である。また、豊漁の神・恵比寿と併祀されることも多い。こちらは、恵比寿と事代主を同一視し、大国主命をその叔父神と見なすことに由来する。
 東京目黒・松林山大圓寺は、寛永元年(1624)創建の天台宗の寺院である。目黒は江戸の裏鬼門に位置するため、江戸城守護を目的とし修験道の聖地湯殿山の行者大海法印が、大日如来を本尊として道場を開いたことに始まる。本堂には家康をモデルに天海僧正が彫像されたとされる開運大黒天が祀られている。このため大圓寺は、大黒寺の通称でも知られる。大圓寺の釈迦堂には、一般公開されない絶対秘仏としての三面大黒天も宝蔵されている。こちらは、天海僧正が延暦寺最澄作の三面大黒天を勧請したものと伝わる。
 明和9年(1772)、大圓寺から出火した炎が麻布・京橋・日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くしたのが「明和の大火」。火元となった大圓寺(寺に忍び込んだ盗人の放火による)は76年間、寺の再建が許されなかったが、幕末に至り薩摩藩主・島津斉興の帰依を得てようやく再興されることとなった。境内には焼死者の供養のため、50年という歳月をかけて完成したとされる羅漢像が立ち並ぶ。
 また、八百屋お七の菩提を弔うため、情人吉三が西運上人として剃髪出家したのち、1万日の悲願を立て往復10里の道を鉦をたたき、念仏を唱え日参した姿を刻む碑が立つ。大圓寺周辺は、東京指定有形文化財の「百段階段」、ホテル雅叙園東京、目黒不動などの観光スポットも近いので是非足を運びたい。
 天文年間には、一家に一体というほど広まっていた大黒天。忿怒の相の摩訶迦羅は、日本神話に取り入れられることで、貧転与福の習合神として生まれ変わったのである。
(2023年3月10日付 797号)