熊野三山と山中他界の信仰

連載・神仏習合の日本宗教史(7)
宗教研究家 杉山正樹

熊野古道

 国土の7割を山地と丘陵に覆われる日本。人々の営みを支える水源となり、貴重な資源をもたらす山々は、古来より里人の生活と共にあり豊穣の源泉であった。恵み深い山の自然は、時に洪水や噴火などの災害をもたらし、人を寄せ付けない畏怖の対象となる。山を敬い山を畏れる感情は、日本人固有の情緒を育み、死後に魂は山に向かうとする「山中他界観」を形成する。神と人との繋がり、あの世とこの世の繋がりの上に生活が成り立ち、それを媒介するのが山の神であるとする世界観である。
 人々は、神霊が居所し時に顕現する山体を麓から遥拝し、禁足地を設けていたが、雑密や道教、陰陽道が移入されるにつれ、山に籠って命がけの修行で験力を獲得し、里人にこれを授けようとする「役小角」のような修験者が顕れる。アニミズム的であった山岳信仰は、これらと結びつくことで修験道という新たなジャンルを生み出して行く。
 和歌山県南部に鎮座する熊野三山は、大峰山系に属する有数の修験道場として知られており、全国の熊野神社の総本山である。山号の通称から、神仏習合色の濃い社宮であることが理解される。熊野三山は、熊野本宮大社(田辺市)・熊野速玉大社(新宮市)・熊野那智大社(那智勝浦町)の総称で、修験道の拠点である「吉野・大峰」と真言密教の根本道場の「高野山」が参詣道で結ばれ、この三霊場を取り巻く一帯が、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として2004年7月に登録された。

神倉神社とゴトビキ岩

 紀伊半島南部一帯は「熊野」と呼ばれ、その語源は「こもりく(隠国)」であるという(五来重『熊野詣』)。「こもりく」には、死者の霊魂がこもる「根の国」のイメージが漂うが、果たして熊野本宮大社の主祭神・家都美御子大神は、須佐之男命と同一視される。和歌山県から奈良三重県に跨る熊野一帯は、南面が太平洋に面し山々が折り重なる峻険の地である。五来は、古代海洋信仰にも言及しているが、熊野が富士山や白山、立山などの霊山と並び比することのない「よみがえりの地」と呼ばれる所以であろう。
 平安末期成立の『熊野権現御垂迹縁起』によれば、その昔、唐の天台山の地主神の王子信が福岡の英彦山に天下ったという。次いで、伊予の石鎚の峰、淡路の国の遊鶴羽山、紀伊の国の切部山に遷った後、神倉山のゴトビキ岩(新宮市神倉・現神倉神社)に降臨、やがて石淵谷の阿須賀社へ勧請され、景行天皇の御代に本宮大斎原に3枚の月の姿で顕れて熊野権現を名乗ったという。
 熊野速玉大社の主祭神は、熊野速玉大神(伊邪那岐神)、熊野那智大社の主祭神は、熊野夫須美大神(伊邪那美神)で、本地垂迹により熊野速玉大神は過去世を救済する薬師如来、熊野須美大神は現世を救済する千手観音が本地仏とされた。
 三社は、各々異なる成因で成立していたが、神社の様式を整えた奈良時代以後、次第に互いの祭神を合祀するようになり、平安時代後期の浄土信仰と結びつくことで多くの参詣者を集めるようになった。熊野本宮大社の主祭神の家都美御子大神が、未来を救済する阿弥陀如来を本地仏とするに至り、過去・現在・未来を透徹する三所権現巡りが、貴族の篤い支持と信仰を獲得した。
 白河上皇は9回、後鳥羽上皇は21回、後白河法皇に至っては29回に及ぶ参詣を行った。また、参詣者の守護のため「王子」と呼ばれる神社が九十九社整備されたが、これは熊野権現の御子神であるとの伝聞がある。熊野信仰は、中世以降に地方武士から庶民層にも広がり、「蟻の熊野詣」という言葉が生まれるほど盛んになった。

那智の滝と青岸渡寺

 熊野三山への参詣道は、「熊野古道」としてその文化的景観が遺されている。平安鎌倉期には、紀伊半島を周歩する紀伊路・中辺路が利用されていたが、難所ルートで費用も高額であった。江戸時代には、伊勢神宮を参拝してからの伊勢路が開拓され「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り」の言葉も生まれた。交通機関のない往時にあって、難行苦行の辺路を巡礼した当時の人々の苦労が偲ばれる。
 熊野速玉大社の例大祭は、毎年10月15日と16日に催行される。15日は神馬渡御式、16日が御船祭りで大社第二殿に祀る熊野夫須美神の神事となる。大社横の熊野川から、1・5キロ上流の御船島まで神霊が赤い神幸船に乗って島を巡る。それを先導するのが9隻の早船で、勇壮な競漕が行われる。
 明治初めの神仏分離と廃仏毀釈で、熊野本宮大社と熊野速玉大社の仏堂はすべて破却されたが、熊野那智大社のみ如意輪堂が難を免れ、後に青岸渡寺として復興している。熊野那智大社に隣接する形で那智山青岸渡寺として現存しているので、参詣の折には併せて参拝したい。
(2022年10月10日付 792号)