親鸞とカルヴァン
2022年10月10日付 792号
親鸞の言葉を伝える『歎異抄』は第四条で、慈悲の実践における自力の聖道門と他力の浄土門との違い(かはりめ)について、次のように述べている。
「慈悲に聖道(しょうどう)・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。また浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。今生(こんじょう)に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終(しじゅう)なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさうらふべきと、云々」
仏教の真意である慈悲の実践において、自力だとどうしても限界があるが、念仏によって自身が仏になれば、思うように衆生を助けることができる、という。浄土真宗の二種回向の真髄で、マックス・ウェーバーが資本主義を生んだプロテスタンティズムの倫理の源泉とした、ジャン・カルヴァンの二重予定説に通じている。
資本主義の倫理
16世紀、世俗化したカトリック教会は、贖宥状(免罪符)の販売を始めた。教会が発行する贖宥状を買えば罪の償いが免除され救われる、天国へ行けるというものだが、これに対して疑問を持つ者が現れた。ドイツの神学者ルターは、新約聖書の「パウロの手紙」に感応して、信仰によってのみ救われるという「信仰義認説」を唱えた。善行によって救われる「行為義認説」を主張する教会への抗議で、やがてルターはプロテスタントのうねりを起こしていく。
ルターに感化されたフランスの神学者カルヴァンは、スイスで二重予定説を唱えた。自分が救われるかどうかは神に予定されており、その運命は変わらないという。そこで、自分が救われる予定にあることを確かめるために、救われた者のように仕事に励むよう勧めたのである。これが「職業召命説」で、仕事に励む者を神が救済リストから外しているはずはないと説いた。当時の階層社会の宗教観では、労働や蓄財は卑しいものとされていたことから、画期的な発想で、ウェーバーはこれに注目したのである。
二種回向とは「往相」と「還相」の二つの回向。「南無阿弥陀仏」を唱えれば、阿弥陀如来の本願により誰でも極楽浄土に往生でき、その救われた立場で現世に帰り、衆生のために慈悲を実践するという教えである。救われた自分は、もはや迷いを抱えたかつての自分ではなく、阿弥陀如来のように振舞う人になったので、本心から慈悲を尽くすことができるという。
両者の精神状態を想像してみると、よく似ている。自分の思いで行動しているうちは、どうしても好き嫌いや体力などの限界に左右され、慈悲を貫くことはできない。しかし、神あるいはイエス、阿弥陀如来が自分の中にいて、その思いで振舞っているという気になれば、個人的な感情や事情は乗り越えることができるのである。これは、信仰者が等しく実感している世界であろう。さらに言えば、利益より人格の向上を目指せという稲盛和夫のような優れた経営者の言葉にも通じる。
そうした思いは、有限な人間が無限を求める、人間の不思議な本性に由来しているものであろう。だから、洋の東西を問わない。「宗教」という言葉には再び結び合わせるとの意味があるが、それは神と人とではなく、人と人とのことに重点がある。複雑な社会を構成して生きる人には、宗教的信念に基づかないと社会が維持できなくなるからである。個人化が限りなく進行する現代社会にあって、その意味は再考されるべきだろう。
社会における宗教
「宗教と政治」が、顔の見えない集団が政治を動かしているかのような憶測で論じられている今、冷静に宗教の意味について、歴史的、文化的に考え直すべきではないか。古来からの神道の基盤に上に仏教を受容した日本の宗教の特徴は、高邁な思想を生活倫理にかみ砕いてきたところにある。江戸時代に現れた鈴木正三の職業修行論や石田梅岩の石門心学は、山本七平が指摘するように日本的資本主義の倫理となった。
『歎異抄』は蓮如によって長らく禁書扱いされてきたが、明治に西欧近代哲学を学んだ清沢満之により再発見され、近代人の宗教として広く受け入れられた。その近代が終わろうとしている今、本来の宗教・信仰の在り方について、己が内面を見つめながら考えてみたい。