文芸評論『内村鑑三』政宗白鳥(1879〜1962年)

連載・文学でたどる日本の近現代(30)
在米文芸評論家 伊藤武司

新聞記者として活躍
 政宗白鳥は明治12年、岡山県和気郡穂浪村(現・備前町穂浪)に200年続く旧家の長男として誕生。次弟は国文学者、三、四男は画家、五男は実業家、六男は植物学者、家族は妹たちを含め優秀であった。二代続いて実子のなかった家庭の男子なので祖母に溺愛され、わがままな幼年期をすごしている。
 幼少から父親の書籍を乱読し、これが生涯の習慣となった。15歳の時に米国宣教師から英語や聖書を学び、内村鑑三の著作を耽読。17歳で上京、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学。基督教青年会主催の夏季学校で内村の連続講演を聴き、植村正久牧師の一番町教会で洗礼を受けた。白鳥は明治初めから昭和にかけ評論家、劇作家、小説家として幅広いジャンルで活躍している。
 日露戦争勃発前年の明治36年、24歳で読売新聞社に入社。美術記者として画壇や歌舞伎の記事に加え文芸時評も担当した。著名な作家らと交流しながら、この数年間は、創作の腕を磨き上げる貴重な準備段階となった。
 処女作『寂寞』を25歳で書き作家デビュー。29歳の『何処へ』は憂鬱の念を重たくかかえた青年を描き、36歳の『入江のほとり』は実弟がモデル。田舎くらしの主人公は、無為に英語を独学し、刺激のない家族の間で怠惰な日々をもてあましている。三作とも明治40年代に盛んになった日本自然主義の見本のような創作であるが、自身は「自然主義を信奉してはゐなかつた。それが時代の関係や周囲の事情から、私は自然主義作家の一人である如く見做され」たと釈明している。いかにも白鳥らしい言い回しで、試し書きはしても強いて作家になろうとの動機や願望はなかったらしい。
 白鳥の作風は一種特有で、戯曲『安土の春』『光秀と紹巴』『人生の幸福』『江島生島』など殺人のストーリーが多く、評論『欲望は死よりも強し』は人間の死ばかりの話。これを、人生の実相に非常な関心をもっている証拠だと説いたのが大岡昇平。白鳥自身も「私は自分の死を恐れている。普通人以上に死を恐れてゐるのであろう」と認めている。この恐怖の念は虚弱体質に由来するもので、海外旅行の際には遺言書を残すほどだった。一般的に、白鳥の人となりは、知的で虚無的懐疑論者として今日に伝わっている。
 文学についての考えは独特の一語。「どうせ小説といふのは遊びだからな。…それでいいんだ」とか「文學芸術なんて畢竟遊戯文学に過ぎない」とのコメント。『日本文學の流れのなかで』の江藤淳との対談でも、自分の創作を「消えてしまえばいい、とほんとうに思つている」「自分の文學の価値は認めない」と執着心のひとかけらも見せていない。
 『老人心理』では、「人生は退屈である」「ツマラン」、小説も「面白くない」「愚論」というのが口癖であった。しかし文芸に対する好奇心や知識欲は並みのレベルではなく、世事への関心も相当のものだったからこそ、大量の評論・随筆が書けたのだろう。人生は退屈、創作もつまらないという真意は、興味のあるものに出会わないからと了解できる。友人の作家たちを個性的、立体感ある姿に彫像する文章力をもっていた。『自然主義盛衰史』には、「花袋の『蒲団』が当時を代表する作品として史上に残ることになったのだが…馬鹿正直の花袋であったればこそだ」とか、「泡鳴のは、實際の男女間の鬪争が露骨であるためであるが…如何にも獨斷的描寫があるのが、泡鳴の特色なのだ」と具体的である。
 評論・随筆の領域を得意とし、「論文は楽だが、創作は骨が折れる」と語っていた。ジャーナリストの経験から題材は豊富で、社会時事から教育、文化、歌舞伎、選挙、日本語、人生訓、青年論、恋愛、食べ物、老人問題、旅行、宗教など多岐である。平易な文章と確かな観察眼、論理中心ではなく人間的な温もりがあり、誰におもねることもなく、感じ信じることを遠慮なく書いた。評論『文壇的自敍傳』は、明治文壇の内幕と美術界の動向や、独歩、花袋、透谷、藤村、荷風らの実像を活写した回顧録。長篇評論『自然主義盛衰史』は、近代文芸史を飾る独特な個性的資料である。
 『何処へ』は小説の代表作とされているが、大岡昇平は「退屈し、途中で投げ出した」。有名な「思想と実生活」論争で近い関係になった小林秀雄との対談『大作家論』で、「政宗さんには愛讀者つてものがありませんね」と言われた白鳥は、「人に讀まれることは期待もしなかった」し、自作の創作が「ヘタ」で「決して自分でも上手だと思わない」と実に率直である。「小説なんていふものはどうでもいゝ」として澄ます白鳥を、小林は「創作家というより批評家、かつ宗教的文學者」だと評したのは正鵠であった。


内村との出会いは数分間
 最高作といえるのが長篇評論『内村鑑三』。内村は青春の白鳥を鼓舞し、高い志操と熱気と希望を賦与した人物であった。白鳥は「心に芽ざしてゐた生存の苦悩」の解決のためキリスト教に接近し、19歳で受洗。聖書を勉強しながら「青年キリストの行動言語に心踊る思ひ」を抱くが、これが幸福であったかどうか単純には決められない。その理由は、白鳥が出会ったキリスト教は「過酷な宗教」とされた内村の無教会や植村正久の純福音キリスト教だったからである。
 白鳥の性格から判断すると、内村や植村の武士的キリスト教はなじみにくいだろう。明治のピューリタンは、世俗的快楽を拒絶する傾向が強く、禁酒、禁煙、観劇の軽視などが信仰の徳目として遵守されていた。こうした禁欲的生き方に苦痛を感じつつ、白鳥はこっそりと歌舞伎座へ通ったりして、自己呵責にかられている。しかも白鳥の感じた神は新約の愛の神ではなく、旧約の恐ろしい神だったようで、23歳で棄教してしまう。
 内村を語る白鳥の筆の走りには精気がこもり、『予が感化をうけたる人々』で一番に内村を挙げている。『内村鑑三』は、内村の著述からキリストの来臨・天国、キリスト教神学から再臨運動に及ぶ力作だが、端的に言って矛盾を内包している。冒頭で熱烈な心酔者であったことを追想し、「内村の筆に成る者はすべて熟讀し、その講演は聽き得られる限り聽いた」青春を過ごしつつ、数年間は内村とキリスト教信仰に完全没入した。それが一転して、「感化影響は容易ならぬものであつた筈だ、と想像されるが、果たして異常の感化を受けてゐたであらうか」と、70歳の己に問いかける。それは憧憬と羨望、敵意と反感などが混在した複雑で屈折した心理といえる。
 内村は当時の青年たちを煽り立てた節があると疑念をはさみこみ、己を「縁なき衆生の一人」、「局外者たる私」と冷ややかである。内村の聖書研究を「日本では他に類が無い」と持ち上げた後には内村訳の聖書には文句を並べている。信仰から50年近く遠ざかった時点での評論はこうした雰囲気であった。
 白鳥が内村と直接出会ったのは生涯で一度だけ、しかも数分ばかりで、むろん内村の弟子ではなかった。内村を「詩人らしくない一種の詩人」的タイプと評する中、無宗教であるのに神や死、天国、地獄、最後の審判、預言、儒教、仏教、霊魂などにこだわっている。年代順に関連文書を並べると『論語とバイブル』『死』『予が感化を受けたる人々』などとなる。
 『予の偉人崇拝経路』は、再臨運動を打ち出した内村の演説を聴いた白鳥の所感、また『内村全集を讀む』は内村の著述を再読し、詩集『愛吟』を暗誦した青春を追想しキリスト教文学の最高と称賛した。小説『深淵』は内村とキリスト教への関心を連想させる作品である。続いて随筆『我善坊にて』『死に対する恐怖と不安』『私の文学修行』『文壇的自敍傳』『予の偉人崇拝経路』『明治時代の外国文学印象』『私の青年時代』『我が生涯と文学』『青春らしくない青春』『人生如何に生くべきか』『宗教と文学』『空虚なる青春』『生きるということ』と多数である。
 『宗教小観』には「吾人は肉と神との兼ね使ふ能はざる乎」とか、『孔子とキリスト』では「はじめに言あり、言は神と倶にあり、言は神なり」など聖書を引用する。『景教の研究』は63歳の小文。随筆『思ふこと』では、講演する内村は歌舞伎の名優のようだったと褒めちぎるが、一変して『内村鑑三雑感』は醒めた評論。内村の愛弟子有島武郎の背教に憤慨したり、小山内薫が「背教者」の新聞連載を始めたことに憤る内村の狭量な心を責めたてている。
 晩年の内村の日記を読んで「負けぬ気の戦闘的の彼も、涙脆くなり、気が弱くなっていることがわかって、この先輩に対して新たな親しみを覚えるようになった」と述懐。すなわち「預言者としてでもなく、先覚者としてでもなく、凡人内村」を見出し、ある種の自己安堵を覚えているようである。
 短文『内村鑑三追想』『内村先生追憶』の75歳の文章では内村を懐かしみ、80歳には『生きるといふこと』の一文。同年の『神よ』は、人生や不確実な人間未来の話。『かみこれをよしと見給ふか』は天地創造の話から、無宗教と信仰の間でためらいながらキリストを想う様子が伝わってくる。
 このように人生を過ごした彼が、臨終の床で信仰を再告白し「アーメン」と唱えたことが社会や文壇で話題になった。ある評論家は一貫してキリスト教徒だったといったが、自ら編んだ年譜には、22歳の時「キリスト教を棄てた」と記している。その不徹底な彼の心理はまさに白鳥流である。日本人は善悪を明確に裁断しない東洋的な風土にいるからという一般論に結びつけるのは可能だろうが、真相はわからないままなのだ。
 白鳥に従えば「たゞ意味もなく青年期を過ごし」、格別な「希望を期待しない」まま平々凡々と「七十年、書いて、ほそゞ と生きてきた」となるのだが、神とキリストと内村の陰影が生涯まとわりついていたのに、疑念の余地はない。
 武田清子は『背教者の系譜』でキリスト教にかかわりながら棄教したタイプを研究した。弾圧による背教者や隠れキリシタンの一群、流行・雰囲気で一時的に信仰に入るが棄教するグループ、そして心情的に共鳴するものの東洋的な宗教観に回帰する無自覚的背教などである。そして、白鳥を一時的な背教、無意識による偽装的背教者に分類した。確かに、離教によって、キリスト教への負い目や敗北感に近似した観念が絡み合いながら一生を歩み、最晩年に信仰心が覚醒したといえるのかもしれない。
 白鳥はビフテキ・パン・コーヒーの洋食派。真面目に仕事をこなし、「平穏凡庸」な生き方を忠実に守った愛妻家であった。愛想のへたな白鳥は1943年、日本ペンクラブ会長に就任。50年に文化勲章を授与された時は、そっけない印象を周囲に与えたという。信仰と魂の問題に対峙し、最後に神とキリストの前に砕けた心境になり、昭和37年、84歳の平穏な永眠をむかえた。(2022年9月10日付 791号)