大安寺における神仏習合

2022年7月10日付 789号

  奈良市東九条町の大安寺を訪ねると、近くの森の中に「元石清水八幡宮 八幡神社」という神社がある。かつては大安寺の寺域の鎮守として、石清水八幡宮あるいは郷社石清水八幡宮とも称していたという。社伝によると、空海の弟子であった大安寺の僧行教が唐から帰国途中の807年、九州の宇佐神宮から八幡神を勧請し、大安寺の鎮守としてここに祀ったのが始まり。その後、八幡神を京都の男山に遷座したのが石清水八幡宮なので、同社は元石清水八幡宮と呼ばれるようになる。
 奈良時代に日本に入ってきた仏教は三論が中心で、唯識(法相)と三論が二大勢力になり、その後、華厳が入ってきた。三論学の中心寺院が大安寺で、三論学は奈良時代の仏教哲学というだけでなく、各宗の経学の根底に流れている哲学、思想、世界観と言えよう。それに触発された空海が神仏習合を目指し、弟子の行教がその夢を膨らませたと想像したくなる。

石清水八幡宮を開く
 大安寺の河野良文貫主は、「大安寺の古い記録に八幡宮はないので、石清水より後かもしれない」と言うが、大安寺の僧が平安京を守護する神社創建に深くかかわっていたことに違いはなかろう。今では地域の氏神になっている八幡神社の拝殿には、不思議なことに鳩の置物がたくさん飾られていた。古くから鳩は八幡神の御使いとされてきたからだろう。
 三論学が衰退した原因について河野貫主は「三論学は空を哲学的に究めるもので、専門家でないと分からない難しさがありました。それに比べ、唯識は今の心理学のようなもので、分かりやすかったのではないか」と言う。
 一方、「空」は宇宙創成の始まり、いわゆるビッグバンの前の状態を表現する概念として、宇宙科学者などからも注目されつつある。一神教的な文脈で語られてきた宇宙創成の物語が、科学の発達によって疑問符が投げ掛けられ、むしろアジアの多神教的な風土で培われてきた宇宙観が、現代科学と整合するような状況になっている。そうした時代だからこそ、もう一度、インドの深遠な「空の哲学」を見直す必要があるのではないだろうか。それは神仏習合の思想にもつながっている。
 石清水八幡宮では、行教が宇佐神宮で参籠した折に、「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受け、それに応えた清和天皇が、翌860年に命じて、平安京の南西、裏鬼門に当たる男山に社殿を建立したのが創建とされる。
 男山は木津川、宇治川、桂川の三河川が合流する京都・難波間の交通の要衝で、近くの天王山では、豊臣秀吉が明智光秀を打ち破った天下分け目の戦があった、畿内における戦略上の重要地点でもある。
 「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水山寺に由来する。創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺として石清水八幡宮護国寺と称していたが、神仏分離の明治政府によって1871年に官幣大社に列するとともに社号を「男山八幡宮」と改名された。その後、1918年に石清水八幡宮に回復する。つまり、古くは寺か神社かの違いはあまり気にせず、人と地域を守る超越的な力を、神聖な施設によって得ようとしたのであろう。その意味では、神仏分離・習合はあくまで近代からの視点にすぎない。

孤立が悪を招く
 日本仏教の、そして神仏習合の頂点ともいえる平安密教を開いた最澄と空海が、共にその若い時代に大安寺に身を置き、外国僧らと交わりながら、探究心を募らせていったのは興味深い。そして二人とも、その後、山に入る。山にこそ日本の宗教の源流があると知っていたからだろう。
 古来、日本の山は修行の場であり、死者を葬る場であり、先祖や自然と交わる場であった。そこにこそ、日本人の、自分自身の生きる道があると信じていたのである。若い宗教者の自己形成の道として、大安寺後の修行は意味が大きい。
 理解を超える事件が多発する今、その背景にあるのは、絶望的な人々の孤立である。周りの人や社会、環境から隔絶され、自分だけの世界で妄想を膨らませると、人は自分を見失い、悪に魅入られてしまうのではないか。そうなる危険は私自身にもあることを肝に銘じ、身近な人と地域に尽くしながら、先人たちが究めてきた日本ならではの宗教を探求していきたい。