六道珍皇寺と小野篁

連載・京都宗教散歩(9)
ジャーナリスト 竹谷文男

六道参りと小野篁

冥界で閻魔大王を補助する篁と鬼=六道珍皇寺閻魔堂

 京都では、お盆が近づくと東山区「六道の辻」にある六道珍皇寺(ちんのうじ)へのお参り、いわゆる「六道参り」が盛んになる。六道とは死んだ人が行く六つの世界「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の各界への分かれ道のことだ。お盆で祖先の霊を迎えるのは8月13日、送るのは大文字の送り火と同じ16日。その前の8月7日から10日までの4日間、精霊(御魂)を迎えるために珍皇寺などに参詣するのが京都市民の習わしである。
 六道の辻には平安時代、気骨があり詩文にも実務にも秀でた官僚・小野篁(おののたかむら、802〜852)の邸宅があった。篁は昼は朝廷で忠実な官僚を、夜は珍皇寺の境内にある井戸から冥界に通って閻魔大王の臣下(冥官)として働いていたと伝わる。篁は、それぞれの亡者にふさわしい行き先を六道の中から淡々と決めていたという。篁が通った井戸は往きの「冥土通いの井戸」は珍皇寺に、帰りの「黄泉がえりの井戸」も残されている。
 かつて京での葬礼は、五条通り(現・松原通り)を東山へと進み、そのふもとで死体を引き渡して人々は逃げるように帰った。このためここが冥界への入り口になるので「六道の辻」と呼ばれていた。近くには轆轤(ろくろ)町、六波羅町などの地名があるが、いずれも髑髏(どくろ)や髑髏原から転化した。
 「桓武天皇が平安京をつくられた時、鴨川は三途の川と見られていました。鴨川を東に越えて鳥部野に来れば、冥土の入り口と言えます。桓武天皇は死者の供養と葬礼のためにここに珍皇寺を建てられました」(珍皇寺住職・坂井田良宏師)。

地獄への入り口「冥土通いの井戸」

 鳥部野、鳥辺山と言われ、死体を鳥についばませる鳥葬の地も近い。吉田兼好は「鳥辺山の烟(けぶり)立ちさらでのみ住みはつるならひならば如何にもののあはれもなからん」(鳥辺山で人を焼く煙が立たないように、人が死なずに生きるものなら、もののあわれも無いものだ)と描いた(『徒然草』第七段)。
 京都は明治になって琵琶湖疎水を建設し、水力発電によって日本で初めて市電を走らせたが、鳥部山あたりに住む古老は「軌道建設時に掘り返したところ、大量の白骨が出てきたといいます」と話す。ちなみに六道の辻近くを通り東山のふもとを南北に走る市電の路線番号も、なぜか「6番」だった。
 では、篁は閻魔大王の下でどんな働きをしたのだろうか。平安時代に書かれた説話集『今昔物語集』や『江談抄』には死後、閻魔大王の前に引き出されたが、篁によって助けられた人の話が伝わっている。右大臣を務めた藤原北家の良相(よしみ、813〜867年)は病気で一度死に、閻魔大王の前に引き出されたが、その下で裁判を手伝っていた篁が、「この人は良い人なので」と冥界からこの世に帰すようにしたと伝えている。

篁は優れた官僚
 篁は、優れた文人官僚である小野岑守(みねもり)の子で少年時代、陸奥国で過ごし武芸に熱中して勉学をしなかった。これを聞いた第52代嵯峨天皇(在位809〜823)が「あの父の子なのに」と嘆かれ、聞いた篁は俄然、勉学を始めて若くして文章生という高級官僚の試験に合格した。そして、身長188センチを超える体躯と矜恃を秘めた有能な官僚に育っていった。詩を得意とし漢学者としての字(あざな)を「野篁(やこう)」と号したが周囲からは「野狂(やきょう)」とも言われた。着る服は粗末でくつはすり減り、しかし誇りをもって法理を曲げずに明晰な判断を下した。このような篁の人となりがあり、また庶民は公正な裁きを期待していたからこそ、篁が夜は閻魔大王の冥官として働いていたという伝説が生まれたのかもしれない。
 このように優秀で評判の高かった篁だったが、思わぬ人生の挫折を経験する。遣唐使の副使として唐へ渡ることになったが、不公平な船の割り振りを受け入れられず、病と称して唐への出発を拒否した。「死罪にすべし」と激怒した嵯峨上皇だったが、周囲の諫めを容れて一等免じて隠岐への遠島流罪とした。その島流しに赴く時に作った篁の漢詩は、韻律比喩とも素晴らしく、手本として吟じない者はいなかったと言われた。そして、篁の才を惜しむ第54代仁明天皇(にんみょうてんのう、在位833〜850)は1年あまりで篁を許してもとの立場に復職させ、その1か月後には仁明天皇の皇太子・道康親王の東宮博士(教育係)という重職を任せた。

六道珍皇寺

 嵯峨天皇と篁は君臣を超えて書や漢詩、和歌などを楽しむ間柄でもあった。桓武天皇によって遷都された平安京だったが、遷都後の混乱を収めて儒学、史学、和歌、漢詩、書など広い教養を持った優秀な律令体制下の官僚群を育てて平安朝の基礎を作ったのは、嵯峨天皇だった。篁は夜は、冥界で閻魔大王の下で官吏を働いていたという伝説に彩られた文人官僚だったが、現実の生き方は私利を追求せず公務に誇りと生きがいを持って真摯に生きた律令時代の優れた官僚の一人だった。(2022年7月10日付 789号)