仏教揺籃の太子山向原寺・豊浦寺跡

連載・神仏習合の日本宗教史(1)
宗教研究家 杉山正樹

向原寺山門

 日本列島には1000年もの間、神と仏が共存する時代があった。8世紀の奈良時代に始まり明治期まで続いた「神仏習合」である。明治初めの神仏分離により、神道と仏教は分離され、それまで神社に普通にあった神宮寺や仏像・仏具は外に出されたが、日本人の心の中から神仏が分離されたわけではない。それは、伝統的な家庭の多くに神棚と仏壇が並立していることからも明らかである。本連載では、日本人の心性に深く根差してきた神仏習合の信仰について、その経緯と葛藤の歴史を、現存する社寺や遺跡をもとに考察していきたい。
 6世紀半ば、欽明天皇の御代に伝わった仏教は、蕃神(あだしくにのかみ・となりのくにのかみ)と呼ばれ、外来のカミの一柱として認識されていた。『日本書紀』には経典の功徳を聞き、聖明王から献ぜられた金色の釈迦如来像の相貌端厳に、歓喜(よろこ)び踊躍(ほとばし)る天皇の様子が記されている。
 欽明天皇は、仏像を祀るべきか迷い群臣に諮る。蘇我稲目が、「西蕃の諸国は挙ってこれに拝礼し、豊秋日本が独り背くことなどありましょうか」と応え、物部尾興と中臣鎌子が、「我が国家の王する天下は、恒に天地の社稷の百八十神を以って、春夏秋冬に祭り拝むを事としてきました。まさに今、改めて蕃神に拝礼すれば、国の神の怒をかうに至ることを恐れます」と対抗する。天皇は「情願する人稲目宿祢に付して礼拝させることを試みるべし」と宣い、釈迦像は、崇仏を主張する稲目の小墾田の邸宅に移し、その後別邸を清め寺(「向原の家」・後の向原寺)とし、ひとまず安置されることとなった。
 仏教伝来以前のわが国には、独自の神祇信仰(=原始神道)が根付いていた。福岡県沖ノ島、奈良県三輪山の祭祀遺構には、原始神道の純粋な姿が遺されている。神祇信仰は、アニミズム(自然崇拝)、穀霊、祖霊信仰を世界観とする民族固有の精神文化でもあった。
 死者の霊は、災いをふりまく荒霊(アラタマ)として恐れられ、神祇信仰では荒霊を鎮め清めるために祀り(供養)を行う。鎮魂が進むと、荒霊の荒れすさぶ祟りの性格が薄まり、恩寵的な和霊(ニギタマ)に変わる。和霊はやがて祖先神と一体となり、人里離れた山中や海の彼方に棲んで村々を見守る。祖先神は、定期的にあるいは不定期に人里を訪れ、樹木・巨石・幟・柱などに一時的に憑り付く。
 そうした場所やモノは、「依代」として崇拝の対象となり、神籬として祭祀の中心に置かれるようになる。これが神社の起源となった。自然崇拝を基調とした穀物豊穣への感謝は、穀霊信仰を生み出し、祖霊信仰と一体となることで共同体祭祀(産土神)の原型が築かれていく。
 仏教公伝から法興寺創建に至る物部氏・蘇我氏の崇仏排仏論争は、幾分潤色されたものであることが、近年の研究で明らかとなっている。崇仏派とされた蘇我氏が神祇祭祀に関与し、排仏派の物部氏に氏寺が存在していた事実は、仏教の受容が単純な宗教戦争の結末ではないことを物語る。
 仏教は6世紀前後、既に私伝の形で多様に伝来していたが、神祇信仰との混淆では、満願禅師(720〜816)のような呪術を使役する山岳修行僧の働きが極めて大きいとされている。釈迦は来世を語らず、北伝仏教は霊魂を否定したが、「神仏習合」では、死者の弔いの儀式を仏が自ら買ってでた。死穢を忌み嫌う神祇信仰がこれを受容し、両者が習合する宗教的蓋然性が生まれたという指摘は的を射ている。神と仏は複雑に混ざり合い、日本人の信仰と精神文化の基層を織り成して行く。

豊浦寺跡

 太子山向原寺(豊浦寺跡)は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある浄土真宗本願寺派の寺院。境内地は、百済王から献上された釈迦如来像を蘇我稲目が祀った「向原(むくはら)の家」の故地とされる。
 如来像の安置後に疫病が流行したため、排仏派は国神の祟りとして「難波の堀江」に像を投棄し伽藍も焼き払ってしまう。たまたま上洛していた信濃国の本田善光が、水中から出現した如来像を拾い上げ、国に持ち帰り祀ったのが長野善光寺の始まりで、現在この如来像は絶対秘仏となっている。
 向原寺の南には難波池と呼ばれる小さな池があり、ここが「難波の堀江」との土地伝承がある(大阪市西区北堀江和光寺の阿弥陀池とも)。「向原の家」は、物部守屋を打ち滅ぼした蘇我馬子により再建され、日本最初の尼寺・桜井寺となるが、百済から帰国した善信尼が住持した。神祇信仰では、巫覡の多くは女性が担ったため、最初の僧侶も女性が充てられたのは興味深い。
 592年には、この辺り一帯を「豊浦宮」として推古天皇が即位。9年後、天皇が小墾田宮へ遷ると馬子は、「豊浦宮」跡に桜井寺を移し豊浦寺を建立する。1950年以降、境内地では段階的に発掘調査が行われ、1985年の調査では、豊浦寺伽藍、その下より豊浦宮遺構が発見され史実の内容が確認された。まさに日本仏教発祥とも言うべき仏教揺籃の地となった。
 現在の寺は江戸時代に建立され、聖徳太子御遺跡霊場第12番札所にもなっている。当寺は集落のなかにひっそりと佇みながら、1500年を経た今もなお、「神仏習合」とその後の歴史の推移を見守り続けている。
(2022年4月10日付 786号)