『蒼氓』石川達三(1905〜85年)

連載・文学でたどる日本の近現代(26)
在米文芸評論家 伊藤武司

 

第一回芥川賞を受賞
 文壇への登竜門として最高の権威である芥川賞の第一回受賞作は石川達三の『蒼氓(そうぼう)』である。石川は明治38年、秋田県横手町(現・横手市)の生まれ。父親は学校教師で、9歳で母親と死別した石川は、高校時代から創作を試み同人誌や地方新聞に投稿していた。大学は経済苦のため一年で中退。一般企業で働きながら職業作家の道を模索。それはプロレタリア文学運動が分裂・衰退していく時代で、同世代に井伏鱒二がいる。
 文学界が混迷する中、創作の新境地を求めて1930年にブラジルに渡り、日本人のコーヒー農場で働き、半年後に帰国。その体験を基に上梓した紀行文『最近南米往来記』には、国策として推し進められていた移民政策への疑念や批判精神が込められていた。その後、移民の実態を小説化した『蒼氓』を同人誌に発表。石川文学の形式が形象されたこの短編が、太宰治や高見順を抑え芥川賞を勝ちとった。
 安定感のある構成で、南米を目指す移民たちの人間模様を描いたストーリーが注目され、菊池寛は「そこに時代の影響を見せ、手法も堅実」と評価し、石川は新しいタイプの作家としての地歩を固めた。翌年に第二部『南海航路』、第三部『声無き民』を発表し滑りだしは順調であった。
 『蒼氓』のテーマは海外移民で、自身の経験を移民集団に結びつけて、社会性の強い物語は、伝統的な私小説的作品とは異なり、主人公を南米を目指す移民の集団にしたのも斬新であった。当時、日本社会では貧困が深刻な社会問題となっており、ストーリーは、移民を決心した個人や家族の事情を織り交ぜながら粛々と進められていく。
 「蒼氓」とは名もない群衆の総称で、社会派作家と呼ばれるようになる石川の原点となった。初期には、アナトール・フランスやエミール・ゾラのリアリズムの影響を受けたが、やがて幅広いジャンルを扱うようになる。

移民という名の棄民
 第一部は大集団の人間模様に密着した8日間の話。舞台は1930年3月8日の神戸。「三ノ宮駅から山ノ手に向かう赤土の坂道」を、朝早くから自動車が列をつくりながら駆けあがっていく。目的地は「国立海外移民収容所」で、行李や大きな風呂敷づつみを背負った953人の涙と笑い、絶望と希望の交錯する臨場感たっぷりの人間劇が始動するのだ。
 1929年、アメリカの株価暴落による大恐慌は、日本では昭和恐慌として社会に打撃を与えていた。最大の被害を受けたのは、粟やひえなどを常食にしていた東北や北海道の農村の人たち。加えて当時、地震や津波の自然災害が頻発し、冷害による凶作にも見舞われていた。アメリカでは、荒廃した農地を棄て流浪するオクラホマの農民たちの苦悩を描いたスタインベックの『怒りの葡萄』が大反響を博し、日本の貧困層に焦点を当て移民問題を扱った『蒼茫』の意義は大きかった。民衆の発散するエネルギーに注目し、彼らの声を聞き取ろうとの著者の意気込みが強く感じられる作品である。
 日本からの海外移民は明治元年、ハワイとグアムをめざしたのが最初とされる。当時の政府は、貧困問題や人口増加を解決する国策として移民を奨励していた。1930年代はそのピークで、戦後直後にも一時増えたが経済復興にともない減少していく。
 汽車やバス、自動車の行列が収容所へと向かう。一様に日焼けした顔が、三ノ宮駅に降り立つと自動車に乗り換える。彼らの「殆ど大部分の者が始めて」の経験なのである。5階建ての移民収容施設には、東北や北海道、九州などからやってきた、貧しさに虐げられた人びとであふれかえり、紡績女工や自動車職工、兵役から逃れた者、一部の金持ちや密輸入者も混じっていた。
 彼らは単純に海外雄飛に胸を高鳴らせていたのではない。負の感情に支配されてきた農民には、「故郷には傾いた家と、…永い苦闘の思い出とが」あった。「家も売った畑も売った。家財残らず人手に渡って了った」。「日本の生活に絶望して更生の地を求めて…共同の悲哀を胸に抱いて」、「ついぞ考えたこともない外国」へ「諦めと混じった希望」をもって流れていくのである。作者は、生き残るために土地を見放した農民、土地のない貧民、社会からはじきだされた哀れな泥臭い「棄民」を主人公に、ダイナミックで情熱的な筆触で描いていく。
 収容所では、海外逃亡をもくろむ犯罪者が刑事に捕まる騒ぎも起きた。一攫千金を夢みる地主は、ブラジルでコーヒー園の開拓で新生活を企てる野心家である。こうしたごった混ぜの大集団の杞憂や不安を、政府の耳障りの良い宣伝がかき消していた。
 ドラの音を合図に、部屋割りが決まると医務室で健康診断。トラコーマなど疾病のある者、「六か月未満の嬰児」は外された。しかし、どう考えても不合格に違いない栄養不足の赤子を抱く「白痴のような母親」がいるし、熊本の13人の大家族は、3か月の嬰児を連れてきた。故郷に帰る所持金がないため、やむなく合格にした家族もある。「ブラジルへ棄てにやる様なもんだ」と医者は舌打ちする。一農民が吐いた「(収容所は)落葉の吹き溜まりですら」の一言には、著者のやり場のないため息や同情の念も混じっている。
 体格検査が済むと食事の証明証が渡される。8人掛けのテーブルには飯櫃と油揚げと菜っ葉の煮つけ、大盛のたくあんとお茶のはいった大きな薬缶が並び、「何とはなしに囚人の食事を思わせる」。不安を抱えながら、再渡航者の「土地は肥沃だし気候は良いし物価は安い」の話にひと安堵する者もいる。しかし本意は、政財界の収賄事件や工場のストライキ、ロンドンの軍縮会議、金解禁問題など「物情騒然として暗澹たる」日本社会の変動に息苦しく、「日本に何の未練もなく…逃げる様な気持ちで出発の日を待っている」のだった。
 現地の実際はどうか。面積が日本の22倍のブラジルの僻地ともなると、「この世から隔離された別世界」で、「ラジオは愚か新聞雑誌は愚か郵便の配達さえも」なく、日本や世界のことはたまに風のたよりに聞くばかり。与えられる開墾地は、石ころと瓦礫ばかりのやせ地で、まともな農業にはほど遠く、過酷な生活が待ちうけている。そして恐ろしい疫病や「マラリアの絶えざる脅威」に常に晒されているが、「そんな事は移民は誰も知りはしない」のだった。
 ポルトガル語の講習、健康管理の諸注意、現地の宗教の講話に続いて、種痘や腸チフスの予防注射が打たれる。2年前には移民船内でコレラが発生し、外国での入港が禁止され、やむなく日本へ戻って来た事件があった。いよいよ出航が明日に迫り、あと10日もすれば次の大集団が集合し新たな集団生活が開始される。

共産主義には否定的
 神戸港を出航した移民船「ら・ぷらた丸」の船内生活を描いたのが第二部『南海航路』。国策会社から派遣されてきた「輸送監督」は、ブラジルも経済不況であることを知りながら、沈黙を決めこみ、事実を移民に告げなかった。
 喜望峰を通過し、45日間の航行の末、ブラジルのサントス港に到着。「細く光る雨」と「灰色に暗い雨空」で動きだした移民小説『蒼氓』は、ここでも雨模様。これから先、前途を暗示するかのような重苦しい光景である。
 集団はブラジル政府の管轄下に置かれ、ここが終着地ではなく、新生活の出発点であることを知る。地球の裏側の最果ての地に来た現実を、痛いほど自覚させられるのである。
 移民たちがブラジルの「移民専用車」に詰め込まれ、それぞれの開拓農地へと運ばれるのが第三部。税関のたちの悪い役人から荷物をくすねられ、「島流しの身の上」のように開拓地へと移送される。それが決して誇張でないことは、移民史につづられた苦労話や、南米諸国に残された彼らの遺産が雄弁に語っている。
 社会派作家の石川は、思想的には共産主義に否定的で、小林多喜二の『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』のように過激な反体制的ポーズはとらない。石川の創作上の社会観は理想的な状況を構想しない。完全な社会などは夢想の産物だからだ。しかし、欠陥があっても、一定のバランスを保っているのが実社会の通常の状態と認識しその地平に作品を構築した。
 石川を良識ある体制内インサイダーと評したのが、文芸評論家の佐伯彰一で、それには大部分の文学者がアウトサイダー的であることに対する批判が込められている。作者は既存の体制側に己をおいても、体制を擁護するのではない。社会の悪や非道徳に焦点をあて、自身の考えや人生観をふくらます作風が、いかにも石川らしいのである。
 さらに石川の人間観察は、絶対的な善人もいないと同時に絶対的な悪人もいないという相対的なもので、偏った表現を嫌い、ありのままの人物像、生身の温もりや喜び、哀しみ、怒り、葛藤などが素直に感じとれる人間描写を基本とした。
 結局、作家の命は自己の良心と良識に従うことであり、この信条によって「動かしがたい…骨格となり血液となって」いくとした。横光利一の『機械』のように、感情を殺した無機質・機械的な作品とは対蹠的な作品であろう。

少年期からの批判精神
 石川の文学的精神は、日中戦争を現地取材した『生きてゐる兵隊』で試練を受ける。1938年のこのルポルタージュ風作品は、南京城が日本軍の手に落ちるまでの戦場の記録で、掲載された雑誌は即日当局から発禁処分になった。戦場の鬼気と日本兵の非人間的な蛮行を、赤裸々に表現したことが問題視されたのだ。石川は執行猶予付きの有罪判決を受け、作家生命が脅かされたのである。
 評論家の山本健吉は、戦時下の裁判における石川の勇気ある抗弁を、驚きをもって『石川達三伝』に記した。国家権力の前でもひるむことのない正義感、気骨ある脈絡は戦後に引き継がれ、流行作家への道が大きく切り拓かれた。
 社会性と大衆文学系をあわせもつ石川は、時代の空気を敏感に読みとる能力と、巧みな題名を付ける感性にも恵まれていた。次々に問題作やベストセラーを連発し、作品の多くは映画化、ドラマ化された。
 67歳の回顧録『流れゆく日々』で、「私の能力の限界のなかで、私なりの現代史を書いて来た」と述懐。その文学世界は、社会的色彩の鮮明な創作群と日常的な出来事をとりあつかう世俗的・大衆的作品に分かれる。前者には名編『蒼氓』を第一に、都市と農村の対立のルポルタージュの力作『日蔭の村』、『生きてゐる兵隊』、教育問題の『人間の壁』、戦争の中の庶民を描いた『風にそよぐ葦』、選挙がらみの汚職事件をモデルにした『金環蝕』などどれも重量感たっぷりのべストセラーである。
 他方の系譜では、人間関係や人生における広い範囲の題材、恋愛、家庭、夫婦、個の内奥にひそむエゴなど多角的なテーマを手がけた。男女の結婚観の『結婚の生態』、真実の愛との邂逅の『転落の詩集』、女性の幸福論を説いた『幸福の限界』『泥にまみれて』、真理を題材にしたユニークな『神坂四郎の犯罪』、男性研究の『悪の愉しさ』『自分の穴の中で』、サラリーマン小説の草分けのような『四十八歳の抵抗』、男女問題をひもとく独白体の『充たされた生活』、血族間の相克『骨肉の倫理』、破滅の人生を描いた『青春の蹉跌』などなど。
 石川の批判精神の萌芽は、子供のころに求められよう。『私ひとりの私』の自伝作品に従うと、「まず疑ってみる性質の人間」であることを、早くから自覚していたという。中学時代は両親や他人に対して正直、真面目一方。父の再婚相手がクリスチャンであったことから、教会や聖書に興味をもったが、牧師の説教を聴きその通俗さを目の当りにして信者にはならなかった。転校した中学での2年間、不良学生たちに囲まれ、狡知でずる賢くふるまう同級生たちの実態をつぶさに見て、表の世界の陰にある暗い現実を発見する。こうした過去の心象が、創作活動のバックボーンに刻みこまれたのである。
 精力的な鋭気と実行力で時代の最前線に立ち続けた石川は、戦後、衆議院議員選挙に立候補し落選するが、日本文芸協家会理事長、小学校のPTA会長、チャタレイ問題の委員、芥川賞選考委員、日本ペンクラブ会長就任と実務的な面でも優れた才覚を発揮した。そうかと思うと、第一回からの芥川賞選考委員を「もはや私が芥川賞の選に当るべき時期は過ぎた」として突如辞任したり、文壇論争・議論も厭わない一徹な側面もみせつけた。
(2022年4月10日付 784号)