京都御所 都の四神相応と国土軸

連載・京都宗教散歩(5)
ジャーナリスト 竹谷文男

塀の鬼門で窪んだ「猿が辻」

 京都御所を取り囲む塀の鬼門にあたる北東の角に、内側に切れ込んだ「猿が辻」と呼ばれる箇所があり、「鬼門封じ」のように見える。一方、天皇が日常の政務や儀式を行った清涼殿には「鬼の間」と呼ばれる、剣を持つ神像が壁に描かれた部屋があったという。この部屋は西南の裏鬼門にあたり、猿が辻から引き入れた鬼を斬り殺すためだったと伝わる。国の平安を願う祭祀を担っていた朝廷の神事の一つとも言われ、道教に由来するものかもしれない。
 平城京からの遷都の背後で、国土軸の大きな変化が起きていた。奈良時代の国土軸を知るには、当時流行した天然痘の伝染経路を見ると分かりやすい。権勢を誇った藤原家の人々をも死に追いやった天然痘は、遣唐使によって唐からもたらされ、福岡から山口、大阪、和歌山、奈良の平城京に達し、さらに三重から東国へと伝わった。人と物の流れの中心である国土軸にそって伝染したのである。古代は水運が陸運よりも便利だったため、瀬戸内海から大和川をさかのぼって奈良に入り、三重から東国へと抜けたのだ。
 ところが、平城京への水運を担っていた旧大和川の出口にある難波津が、土砂の堆積で機能が低下し、代わりに使われるようになったのが、少し北の淀川水系である。淀川は、京都からの桂川、琵琶湖からの宇治川、三重からの木津川が、京都の南で合流し、大阪を貫流して瀬戸内海に至る。
 この三川の合流点近くに水運の要・山崎津があり、京都・伏見区辺りの巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる広大な湖沼につながっていた。巨椋池はその後、干拓で消えてしまう。これらの水上交通路によって瀬戸内海から淀川、琵琶湖、さらに東国や日本海に通じる国土軸が浮上してきた。
 このように京都は内陸にありながら、水運によって東西にアクセスしやすいことは、皇太子時代の天皇陛下が2003年3月、国立京都国際会館で開催された「第三回世界水フォーラム」の開会式記念講演でも述べられている(徳仁親王著『水運史から世界の水へ』NHK出版)。
 また京都から西に西国街道が延び、北への水路では「氷上回廊」と呼びうる標高100メートル未満の南北の地峡帯を流れる加古川水系と由良川水系が、日本海と瀬戸内海をつないでいる。旧氷上町(現兵庫県丹波市)にある分水嶺では、川が南北に分かれて流れ、人や動物だけでなく魚も泳いで日本海と瀬戸内海を行き来できた。これが京都の地理的ポテンシャルで、当時の道教的な言葉で表現すれば「四神相応」となるのだろう。
 桓武天皇(在位781〜806年)は最初、大阪との境に近い長岡京に遷都したが、10年で中止される。三川の合流点に近すぎて洪水の被害を受けたからだ。長岡京は放棄され、そこより標高が約30メートル高い現京都市内が選ばれ、遷都されて平安京となった。
 現在の京都御所は当初よりも東に移っていて、市内を流れる鴨川に近い。御所から北を見ると、福井まで続く北山の山並みが迫っている。東には琵琶湖と京都盆地を画する東山連峰が連なり、最初に比叡山が、次に山焼きの「大」の字が刻印されている大文字山が目に入る。西に目を転じると、全国の愛宕神社の総本宮がある愛宕山の頂きが盛り上がって見える。南へは鴨川が下って平野を開き、三川と巨椋池(当時)が、防衛上は巨大な堀の役目を果たしていた。時として鴨川は暴れるが、都を捨てるほどではなかった。

紫宸殿


 都を開いた桓武帝は歴代天皇で初めて、天と地に王の即位を知らせ、天下泰平を感謝する「封禅の儀」を、京都の南の方角にある交野山(大阪府交野市)で行った。中国の帝王が行った儀式で、天を祀るのが「封」、地を祀るのが「禅」である。秦の始皇帝は紀元前219年に泰山で行い、唐の高宗が666年に泰山で行った時は、日本からの遣使も参列している。さらに楊貴妃で有名な玄宗皇帝も725年に泰山で行った。儀式の詳細は不明だが、道教由来とされる。
 都の防衛では、琵琶湖に面する大津から逢坂山を越えて京に入る隘路が最も危険だった。この隘路を東山連峰の高地から守ったのが延暦寺の僧兵で、白河法皇は「かも河の水、双六の賽、(延暦寺の)山法師」が、意のままにならない(『天下三不如意』)と嘆いている(『平家物語』)。桶狭間の隘路で今川義元を討ち取った織田信長は後に比叡山を焼き討ちしたが、上洛を目指す武将であれば、信長でなくても京への隘路を押さえる僧兵を排除しなければならなかっただろう。
 こうして三方を山に囲まれて守りやすく、南に水で開けた四神相応の地として、平安京は選ばれた。延暦寺は最高の仏教研究の場となって僧を集め、ここで学んで山を下り、新たな仏教を起こした僧も多い。千年という長い間、物資も人も全国から集まり、文化が育まれ、それが地方に拡散していった。こうして京都は、19世紀のグローバリズムが日本に開国を要求する時まで都であり続け、日本文化や日本人のアイデンティティの形成に大きな役割を果たしてきたのである。
(2022年3月10日付 758号)