虎ゆかりの社寺へ初詣

朝護孫子寺・四天王寺・大江神社

信貴山朝護孫子寺の大虎

 今年は36年に一度の「五黄(ごおう)の寅」。九星気学において最強運勢の「五黄土星」と、十二支の中で最も運勢が強い「寅年」が重なった年である。寅年にちなみ、世界一大きな虎の張り子「大虎」がある奈良・生駒山の信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)と四天王寺、大江神社に初詣した。
 大阪と奈良の県境にある生駒山、『日本書紀』では東征の神武天皇が山麓で、長髄彦(ながすねひこ)と激戦を繰り広げている。山の北端には役行者が開いた修験道場とされる宝山寺が、「生駒の聖天さん」として大阪商人らに篤く信仰されている。真言律宗の大本山で、空海による神仏習合の典型である。
 生駒山の南端にあるのが朝護孫子寺で、信貴山真言宗の総本山。本尊は仏教を守護する武神の毘沙門天で、「信貴山の毘沙門さん」として人気がある。山門をくぐると大きな石の鳥居があり、その先に家族連れが長い列を作っていたのは、本堂を見上げる大虎の前で記念撮影するため。境内には虎の像や絵があふれていた。
 伝承によると、仏教受容をめぐる蘇我氏と物部氏の戦の折、仏教を奉じる蘇我氏の家で育った少年時代の聖徳太子が、この山で戦勝祈願をしたところ、毘沙門天が「寅年、寅の日、寅の刻」に現れ必勝の秘法を授けたという。戦に勝った聖徳太子は自ら毘沙門天を像に刻み、伽藍を建てて祀り、同山を信じ貴ぶ山として「信貴山」と名付けたという。参道脇には少年太子の騎馬像が銀色に輝いていた。
 醍醐天皇が病に伏した折、同寺の命蓮(みょうれん)上人が毘沙門天に祈願したところ、たちまち全快。以来、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」と呼ばれるようになったという。

四天王寺


 信貴山を下り、JR大和路線で王寺から天王寺に向かうと、線路横を飛鳥と難波を結ぶ大和川が走っていた。天王寺駅から歩いて12分、聖徳太子の創建とされる和宗総本山の四天王寺がある。
 上記と類似の説話で、物部氏との戦で蘇我氏が劣勢になった時、14歳の聖徳太子は、近くの木で四天王の像を作り、「この戦に勝利したら、四天王を安置する寺を建てる」と誓願。そのかいあって味方の矢が物部守屋に命中して蘇我氏が勝利。6年後の593年、太子は四天王寺の建立を始めたという。四天王とは、須弥山で仏法僧を守護する四神、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天(毘沙門天)である。
 四天王寺から大阪城までは上町(うえまち)台地の西端にあり、西方浄土を思わせる西日を望むことから「夕陽丘」の地名がある。古代、近くまで海が迫り、船で中国や朝鮮から大和を訪ねた人たちは、海辺に立つ壮大な伽藍を目にしていた。政治家でもある太子の外交センスである。

大江神社の狛虎、かつては毘沙門堂があった


 四天王寺の西側、上町台地の崖の上に、狛虎の大江神社がある。四天王寺の鎮守社である四天王寺七宮の一つで、これも聖徳太子の創建。四天王寺の北西・乾(いぬい)の方角にあることから「乾の社」と呼ばれていたが、幕末、神仏分離の高まりで大江岸にちなみ大江神社と改められた。
 東隣には、愛染明王を祀る勝鬘院愛染堂があり、太子が勝鬘経を推古天皇に講じた所だという。街を歩くと太子講を掲げた会社や日本最古の会社・金剛組もあり、奈良と大阪には太子信仰があふれていた。