上賀茂神社の競べ馬

京都宗教散歩(3)
ジャーナリスト 竹谷文男

細殿の前の立砂

 上賀茂神社で行われていた一種の競馬である競べ馬を、木の上で居眠りしながら見ていた僧に対して「落ちて死ぬとも知らずに眠りこけている」と、下にいる人たちはあざ笑った。しかし、そこにいた吉田兼好は思わず、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」(今すぐ死が訪れるかも知れないのに物見をしている我々はもっと愚かかも知れないのに)と呟いた。すると前にいた人たちは、「本当にその通りだ」と粛然としたという(『徒然草』)。
 鎌倉時代、民衆はこのように死を無常として身近に感じ、救われたいという切実な思いを抱いていた。兼好が徒然草で描いた競べ馬の舞台である上賀茂神社は、京都市を流れる鴨川の水源に近い市北部に位置している。さらにその北には御神体である神山(こうやま)、賀茂大神の降臨地がそびえる。
 京都盆地はもとは湿地帯で、乾いた土地が現れたのは高度の高い北側からだった。盆地の北にあるこの神社は山城国一宮であり、社伝によると神武天皇の時代に祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が降臨した。ここを支配していた古代氏族・賀茂氏の氏神で、社は世界遺産「古都京都の文化財」の一つとして登録されている。
 兼好の見た競べ馬は、神社の一の大鳥居あたりから神山の麓近くまで、かなりの距離を走り、五穀豊穣、天下泰平を願う神事だった。馬は、上賀茂神社が全国に持っていた荘園から選りすぐって送られてきた。二頭が二馬身の差をつけてスタートし、ゴールでその差が開いたか縮まったかによって勝ち負けを判定し、競争は激しく、死者が出ることもあったという。
 社の二つ目の鳥居をくぐって進むと、細殿に出る。細殿の前には、円錐状の二つの立砂(たてずな)が並び立つ。左の立砂の頂上には、三つの針葉を付けた松葉が一本刺されており、右には二つの針葉を付けた松葉が一本刺されている。陽陰を示していると言うが、古神道に由来する表象であろう。これが清めの塩の祖型だとの一説もある。
 神社内には御手洗川(みたらしがわ)と御物忌川(おものいがわ)が涼しげに林の間を流れ、合わさって「奈良の小川」となる。末社には水にちなむ神が祀られている。代表的な水の神である罔象女神(みつはのめのかみ)を祭神とする川尾社、古事記・日本書紀には記されていないが水神や瀧神、川神とされる瀬織津姫(せおりつひめ)を祭神とする梶田社、そして水の分配を司る神である水分神(みくまりのかみ)を祭神とする小森社がある。特に瀬織津姫は、弥生時代以前から水の神として、広く祀られてきたという説がある。また、瀬織津姫は天照大神の荒御魂とされることもあり、あるいは熊野神社の熊野権現は瀬織津姫であるとの説があるほど、謎が深い女神であり水の神である。

奈良の小川に遊ぶ子供たち

 奈良の小川では今でも、暑い季節になると近所の子供たちがやってきて、元気よく水遊びを楽しむ。子供たちの喚声は林の中にこだまし、京都市民にとっては目を閉じれば浮かぶ風景である。大人でも童心に帰ってか、あるいは自身のお清めのためか、清らかに流れる川に足を浸す人もいる。子供が喚声を上げ、大人が童心に帰れば、賀茂の神様もさぞ、喜ばれることだろう。
 その子供たちも成長し、自分の足で人生を歩み始めるようになると、兼好の言うように人はいつか死ぬものであることを知る。兼好の優れた一文によって鎌倉期の人々がどれほど現実感を持って死と向き合っていたかを、我々は知ることができる。当時の人々は、いわば終末論的な激しい焦燥感を持って生きていた。それは鎌倉仏教を生み出す精神的、霊的な素地となった。
 それまでの仏教では、人は出家をして修行するしか救われなかった。例えば比叡山は、僧にとっては立派な修行の場であったが、庶民にとっては自分たちの救いとは遠い存在と感じられていた。しかし、鎌倉期に起こった仏教では、普通の人たちが生活の場で信仰を実践することによって救われる、いわゆる「易行(いぎょう)」による救いを説いた。
 例えば法然は、凡夫の自覚を抱いて、弥陀の本願を信じ、弥陀の称号を唱える(称名念仏)ことによって誰でも救われると教えた。板東武者だった熊谷直実など多くの庶民が帰依し、易行による救済観は、その後の日本人の生き方に大きな影響を与えた。
 兼好が描いたように、上賀茂神社は人々に無常を感じさせ、子供らに無邪気な喜びと喚声を上げさせ、大人をして童心に帰らせしめ、あるいは人々 の心に潤いを与えてきた。そのような場所こそが、今風に言えばいやしの場であり、パワースポット、あるいは神威あらたかな場所なのだろう。
(2022年1月10日付 783号)