自由社会の優位性は保たれるか(下)

連載・宗教で読み解く世界情勢(71)
宗教問題アナリスト・小笠原員利

 一党独裁の統制国家である中国が優位性を主張する時代にあって、これまで自由民主主義国家が自らの優位性を確立するために欠かせない要素となってきたのが道徳と倫理である。そして、それらは宗教と密接に結びついてきた。かつて米国初代大統領ジョージ・ワシントンは退任演説で「政治を成功に導くあらゆる性向や習慣のうちで、宗教と道徳は欠くことのできない支柱である」と述べつつ、「宗教がなくても道徳を維持できるという仮定」を否定した。
 彼は法廷宣誓から宗教的義務の感覚が切り離された時、何が起こるかと問いかけた。どんなに厳密な法体系を作り上げたとしても、遵法意識がなければ有効に機能させることはできない。自由主義と法の支配を両立させる鍵は道徳的人間の育成にあるが、ワシントンは全能の神の裁きの前に立つ感覚こそが、道徳のよって立つ基盤だと考えたのである。
 一方、無神論者の共産主義者にとっては、神の定めた普遍的な道徳基準は存在せず、それぞれの階級の利益を表す階級道徳があるのみだ。したがって権力の座にある階級こそが善悪の基準を定め、法律や制度の作成者となる。共産主義国家が例外なく独裁と恐ろしい粛清に帰結したのも「神を畏れない」信念がなせる業だろう。
 宗教的義務の感覚は、経済活動にも道徳と倫理を要求する。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を引くまでもなく、キリスト教的な敬虔と、勤勉、節制、奉仕など質の高い経営や労働に欠かせない徳目とは強く結びついており、資本主義発展の基盤となってきた。これは、儒教道徳を基盤とした日本や韓国で欧米に伍する経済発展が成された理由の一つでもある。明治期の渋沢栄一は「論語と算盤」を唱え、儒教道徳と経済活動を表裏一体のものとした。「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助(現パナソニック創業者)を突き動かした「貧をなくす」という使命感の原点にも、喜んで公的に奉仕する宗教信者たちとの出会いがあったと言う。多くの経営者に影響を与えた彼の語録は、宗教的な警句であふれている。
 そうした歴史を踏まえると、現代の自由民主主義、資本主義の危機は、まさに宗教の衰退と表裏一体であるかもしれない。
 近年、注目を浴びるドイツの哲学者マルクス・ガブリエル教授(ボン大学)は、アフターコロナの新しい経済活動の在り方として「倫理資本主義」を唱えている。彼は新型コロナ以前のグローバル経済を環境破壊や格差拡大を招いた利益至上主義として一刀両断し、コロナがすべてを変える、と主張する。コロナ禍にあって人々は、五輪を開催すべきか、祖父母に会いに行くべきか、など一つ一つの行動に倫理的決断を迫られることになった。それは個人のみならず、企業も同様で、短期的成長を持続的発展につなげようとすれば、社会に価値を生み出す倫理的な経済活動を行わなければならない。彼は企業には「倫理課」、政府には「倫理省」が必要だと述べる。
 彼の主張は、資本主義の進化であるとともに、原点回帰でもある。そもそも近代資本主義の出発点に立つアダム・スミスは『国富論』だけでなく『道徳感情論』の著者でもあった。その冒頭、スミスは人間には利己心ばかりでなく、他人の苦痛、不幸に共感し、幸福を願う本性がある、と述べており、利益追求のために過剰なリスクを仕掛ける者たちを「浪費家」「謀略家」と呼んで軽蔑した。さらには「中立な観察者」の視点の重要性を指摘し、自分の感情や動機を他者の視点で評価し、称賛されうる生き方をすべきだと考えていた。彼の経済思想の前提には、こうした道徳哲学があったのである。
 いずれにせよ、自由民主主義、資本主義が再び成功を手にするためには、道徳、倫理の復興が欠かせない。問題は、かつてそれらの基盤となってきた宗教的情操、宗教的な義務の感覚をどのようにして現代人が獲得するのか、ということだ。先進資本主義国家は、おしなべて宗教の衰退が著しい。欧州の教会に閑古鳥が鳴いていることは知られているが、米国でも教会離れが加速しており、日本に至っては宗教を実践する若者の割合は世界最低水準だ。
 既存の制度的宗教の復活については、残念ながら多くの専門家が否定的である。一方で既成宗教の枠にとらわれない精神性の探求が盛んになっているとの指摘もある。果たしてわが国を含む先進諸国は、倫理・道徳の基盤となる宗教性を回復し、再び一党独裁に対する優位性を示せるだろうか。
(2021年12月10日付 782号)

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