日本人の心性に合う宗教とは

2021年12月10日付 782号

 遠藤周作の没後25年に当たる今年、遠藤の信仰を問い直すテレビ番組や出版があった。遠藤が、母から与えられたカトリックを「お仕着せの洋服」に例え、それを自分なりに「仕立て直す」のを生涯の仕事にしたことはよく知られている。
 最後の長編小説『深い河』の主人公のモデルは、遠藤と同じ船でフランスに留学し、カルメル会修道院に入った井上洋治司祭で、フランス人の価値観やスコラ哲学のフランス神学に違和感を共有した二人は、互いに「戦友」と呼び、生涯のテーマを確認している。

仕立て直し
 NHKETVの「こころの時代」の「遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる」に出演した批評家の若松英輔と山根道公ノートルダム清心女子大学教授はともに井上神父が主宰する「風の家」で学び、神父を「心の師」とする親友。「風」は古代ギリシャ語「プネウマ」の訳で、「空気、大いなるものの息、聖なる呼吸」などを意味し、英語のスピリットの語源である。
 井上が司祭になろうと思ったのは、リジューの聖テレーズの自伝を読み、感動して、その世界を生きてみたいと思ったから。神は小さきもの、悪をも包み、すべてを愛するという信仰で、それは日本人の心情に通じると感じたのである。
 それに対してフランスの神学には明確な階層的序列があり、善悪を峻別していた。神学生の仲間に「おまえの神はどういうものか」と聞かれ、井上は「あなたたちが考えているように外にあるのではなく、私の中にもあり、すべてを包むもの」と答え、異端視されたという。
 社会学者の見田宗助(むねすけ)東京大学名誉教授は、キリスト教の原罪主義に対して日本人は原恩主義だと唱えた。時にひどい災害ももたらすが、それも含めて自然に対する感謝が日本人の心性を形成してきた。それは、東日本大震災で被災した人たちの振舞い、心情を見ても、今に続いていることがわかる。
 ルターに匹敵する日本仏教の改革者とされる法然が弟子の親鸞により広まる悪人正機説を唱えたのも、渡来宗教である仏教を日本の風土に根付かせる大きな営みであった。遠藤や井上が深く学んだのも仏教で、とりわけ法然に共感していたという。彼ら日本仏教の宗祖たちと同じような努力を、文学と神学の中でしたいと考えたのであろう。
 その営みは、英語を駆使して多くの著作を残しながら、洋風化の明治に頑として和装を通した岡倉天心にも通じている。天心がインドで出会い、深く交わったヒンドゥーの出家者ヴィヴェーカナンダは、円覚寺の釈宗演も参加した1893年にシカゴで開かれた世界宗教者会議でわずか3分半の講演をし、「世にあるさまざまな宗教という『河』は一つの『海』に流れ込むように存在している、宗教は互いを否定し合うために存在しているのではなく、分かり合い、深め合うために存在している」と語り、大きな感動を呼んだ。その後の宗教間対話の端緒となる出来事であった。
 宗教が「もとの教え」であるのは、人々の心の奥底にある思いを喚起し、その人なりの姿勢、信仰に育てるからではないか。大事なのは、その人の成長であり、世俗としての教団の維持・発展ではない。

原点回帰と成長
 コロナ禍は私たちにとって本当に大切なものは何か、問い直す時間を与えてくれた。単なる形式や付き合いをそぎ落とし、自分を成長させてくれるもの、ことを求める生き方が、コロナ後の課題ではないか。そうしてこそ時代的な閉塞を打ち破ることができる。
 科学技術の進歩はAIにより人類初のサイボーグを生むまでになった。ハラリの『ホモ・デウス』に似て、脳の情報を機械に保存し、臓器も機械に置き換え、永遠の生命を獲得し、まさに神(デウス)になろうとする。それを人類の「進化」とする時代に、宗教は応えないといけない。
 宗教の歴史は仏教の戒律運動にもみられるよう、原点回帰、信仰復興の歴史でもあった。日本人の原点に返ることで、日本人の心性に合う宗教を求める姿勢が、今求められている。