米軍における思想的分断線

宗教で読み解く世界情勢(69)
宗教問題アナリスト 小笠原員利

 アフガニスタンからの米軍の無様な撤退は、バイデン政権の支持率低下をもたらし、同盟国からの不信と懸念を呼び起こしている。米政府ばかりでなく、世界最強であったはずの米軍の脆さに対しても批判の矢は向けられている。
 8月30日には、90名近い退役将軍・提督たちが署名入りで、オースティン国防長官と制服組トップのミリー統合参謀本部議長の辞任を求める公開書簡を発表した。米軍首脳部は軍関係者による批判を抑え込もうと、「軍法に則り」大統領や閣僚、上官への侮辱的言動を禁ずる警告を発したばかりだったが、公開書簡は、こうした軍首脳に対する強烈なカウンターパンチとして繰り出された。
 辞任を求める理由は、言うまでもなくアフガンからの拙速な撤退である。「残忍な敵」タリバンに支配された危険なエリアには、推定1万5000人の米国人と、米国に協力した2万5000人のアフガン市民が取り残された。さらに数十億ドル分に上る最先端の軍事機器や物資がタリバンの手に渡った。その一部は中国に渡り、米軍の最新装備の貴重な情報が漏洩することになるだろう。同盟国の信頼は損なわれ、中国、ロシア、イラン、北朝鮮など敵対的な国々の行動は大胆になっている。米本土に対するテロの危険も高まった。
 彼らによれば、こうした状況を避けるためにオースティン長官とミリー議長は、できる限り強力な言葉で大統領に勧告を行うべきだった。もし、そのための努力をしなかったのであれば、不作為の責任を取って辞任すべきであり、逆に最大限の努力をしたのであれば、大統領に対して抗議の辞任を行うべきだと言う。実に痛烈な批判である。
 興味深いのはこの書簡の後半部分に示された、もう一つの辞任に値する理由だ。上記の「軍事作戦上の理由」に加え、長官と議長には、もう一つ「リーダーシップ、訓練、士気」に関して大きな問題があるという。それが、軍の教育、訓練における「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正さ)」の過度の強調だ。
 実はバイデン大統領の就任以来、共和党保守派や退役軍人たちの間で、米軍上層部の政治的な左傾化への懸念が高まっていた。退役した将官たちが公開書簡を発表したのもこれが初めてではない。数か月前にも200名余りが連名で書簡を公表し、民主党支配の議会と政権を強い言葉で非難していた。社会主義とマルクス主義による専制が始まり、建国以来の自由と価値が失われようとしていると警告したのである。
 米国社会の分断は、いまや米軍内部にも深刻な亀裂をもたらしている。分断線にあるのはLGBTの「人権」運動と、「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」運動で脚光を浴びた「批判的人種理論(CRT)」の軍の教育・訓練プログラムへの導入の問題だ。
 LGBTに関してトランプ政権は、性別違和に苦しむ個人を軍に入隊させない方針を取っていた。性別違和を抱える人は、重度の不安を経験したり自殺を試みる割合が非常に高く、ストレスの大きな軍務には適さないと判断されたのだ。しかし、バイデン氏は就任直後の大統領令でこれを覆し、退役軍人省の資金で性別適合手術を支援する方向性まで打ち出した。こうした方針に対しては現役、退役を問わず反対意見が噴出したが、そのうちの一人、陸軍の専属牧師を務めるアンドリュー・カルバートは、Facebookに最高司令官(大統領)の方針に反する意見を投稿したとして譴責処分を受け、除隊の危機に直面した。結果的にそれ以上の処分は回避されたが、保守的軍人の間には、思想的に罰せられる懸念が高まっている。
 CRTについてはさらに深刻だ。同理論は米国社会が基本的に人種差別の構造をもっており、憲法はじめ既存のあらゆる法体系や制度が白人に有利に作られているとする。この理論によれば、建国の父も奴隷を所有した差別主義者であり、米国の歴史や文化、制度すべてが否定の対象となる。まさに米国版「自虐史観」だ。こうした理論が祖国のために命を懸けるべき軍の士気を引き下げ、建国以来の歴史に誇りを持つ者と嫌悪感を持つ者との分断をもたらし、軍の結束を乱すというのが退役将軍・提督たちの懸念である。彼らは最高司令官である大統領と軍首脳が、軍の士気を高め、結束と強化を図るよりも、ポリティカル・コレクトネスに執心していることに強い不信感を抱いている。同様の思いを持つ現役軍人も少なくないだろう。
 中ロの軍事力が強大化する一方で、米軍は内なる分断に苦しんでいる。日本と自由世界にとっても大きな不安材料だ。
(2021年10月10日付 780号)