18─20世紀のアフリカとシュヴァイツァー
連載・シュヴァイツアーの気づきと実践(24)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫
シュヴァイツァーが医療伝道者としてアフリカにおもむいたのは1913年、彼が38歳のときであった。私たちはその頃までのアフリカの実情を知らなくてはならない。
ヨーロッパに近いエジプトやモロッコなどは例外であったが、赤道近辺とそれ以南のアフリカには、原始の世界が広がっていた。20世紀のはじめ頃まで、暗黒大陸と呼ばれていたのもうなずける。部族単位で住み分け、主に動植物の採取生活を送っていた彼らアフリカ人は、日本でいうなら、縄文から弥生、古墳時代の生活を営んでいたのである。
ヨーロッパ人がそこに押し入り、彼らを無知蒙昧な人種として奴隷狩りを行なった。捕らえられた黒人の多くは、ヨーロッパや発見間もないアメリカへ連れて行かれた。奴隷狩りは16世紀半ばに始まったが、盛んに行なわれるようになったのは17世紀に入ってからである。売り飛ばされた奴隷の数は2千万を超えるという。その実情は、アレックス・ヘイリーの作品『ルーツ』に克明に描かれ、テレビドラマにもなっている。
アフリカに進出し、無知な黒人を安い労働者としてこき使い、その地の豊かな自然資源である鉱物、木材、動物の毛皮や牙や角などを手に入れ、国力を高めようとした国が続出し、ここにヨーロッパ諸国の植民地合戦が始まった。このレースに参加したのは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ベルギーなどの7カ国である。それまではっきりした国境線などなかったが、ヨーロッパ諸国の進出によって、植民地の区分けがなされていった。1800年代のことである。
植民地政策はどの国の場合も、まことに身勝手なもので、現地人にとっては過酷なものであった。現地人はいくら働いても、個人としても国家としても、潤うことはなかった。キリスト教宣教団が送り込まれ、宣教師たちは現地人の教育、医療、生活全般の教化などに努めたが、結果的にはそのほとんどが、植民地支配を助長することにしかならなかった。
1904年の秋、ある伝道誌にこんな記事が載った。
「ここアフリカでは黒人たちが、安い賃金で酷使され、騙されてヨーロッパ製品を高く買わされ、様々な熱帯病に苦しみ、ヨーロッパから持ちこまれたハシカや天然痘などで命を奪われている。だれか、主イエスの愛の呼びかけに応えてくれる人はいないだろうか。」
たまたまこの報告書を目にしたシュヴァイツァーは、静かに目を閉じた。彼は21歳の決意「私は30歳まで自分の学問と音楽に生きよう。30歳からは、直接人びとのために奉仕しよう」を忘れることはなかった。30歳の誕生日を目の前にした彼は、何をして奉仕するかを真剣に模索していた。彼は決心した。「よし、私が医者になってアフリカに行き、現地の黒人たちを病魔から救い、生活全般の教化をしよう。」
彼は、それが可能かを厳しく自己点検した。健康、学者と音楽家の経歴の放棄、新しい医学の準備、資金、理解者と援助など。すべてに合格点を与えたシュヴァイツァーは翌年の1月、30歳の誕生日に、この決断を身内や友人たちに書き送った。
(2021年6月10日付 776号)