『豊饒の海』三島由紀夫(1925〜70年)

連載・文学でたどる日本の近現代(19)
在米文芸評論家 伊藤武司

憂国忌50年
 憂国忌50年の昨年、各種雑誌はこぞって文豪三島由紀夫の特集を組み、出版や放送もあいついだ。とにかくあの事件はショッキングであった。昭和45年11月25日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地(現・防衛省本省)に立てこもり、バルコニーからの演説の後、自決したのだ。ノーベル賞もささやかれていた作家が、近代日本で前代未聞の切腹自殺を遂げたのである。ニュースは世界中を駆けめぐった。
 小説家、劇作家、評論家、随筆家など多彩な才能を発揮した三島由紀夫は、子ども時代は腺病質で胃弱な体質であった。成人してからは剣道で鍛錬し、さらにボクシング、ボディービルなどで肉体改造をしながら壮健な身体を作り上げた。
 昭和16年、若干16歳で同人誌に処女作『花盛りの森』を発表。書き下ろし長編『仮面の告白』を昭和24年に上梓。自己省察による一種の自伝的心理小説である。その後『愛の渇き』『青の時代』『禁色』などを出し、文学的基盤を確立。作家三島の文名は華々しく社会に喧伝された。31歳のとき、金閣寺全焼事件をヒントに俊敏な審美眼で書いた『金閣寺』は不朽の傑作とされ、海外でも高い評価をうけた。作家として30以上の長編を主とした小説、戯曲、評論、エッセイ、人物論、作品論、対談・座談会など多岐にわたり活動した。
 とかく話題にことかかない人物で、『仮面の告白』『長すぎた春』『美徳のよろめき』などのベストセラーの小説は流行語ともなった。古代ギリシャ風の抒情的・牧歌的な純愛物語『潮騒』を創作する一方、凄絶な死とエロスの『憂國』を刊行。『憂國』の映画化には監督・製作・脚色に自ら主演をするほどの意欲をみせた。切腹シーンが西洋人には大変衝撃的で、フランスの国際映画祭で物議をかもし次席であった。
 いつのことだったか、文芸志向のアメリカ人女学生と日本文学を語り合いながら、三島に話がおよんだ。彼女は三島文学の熱狂的なファンで、映画『憂國』を鑑賞したことを知ると、目を大きく見開き羨望の眼差しをむけてきた。
 三島の文学表現には、外国や日本の古典の影響がみられる。フランスの作家モーリアックから示唆された『愛の渇き』、短編集『ラディゲの死』や『盗賊』なども奇才ラディゲへの関心度をみせている。幼いころから祖母の影響で日本の古典芸能に親しみ、謡曲を前衛的にアレンジした戯曲集『近代能楽集』を刊行している。三島の近代能を英訳し、西洋での能の普及に貢献したのはドナルド・キーンであった。
 長編『豊饒の海』は、明治末から昭和45年までの激動の渦中を生きた人物たちを描いた三島文学のライフワーク。『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四部作には、仏教的な転生の思想が底流し、平安期の夢のお告げと転生を扱った『浜松中納言物語』にヒントを得たという。
 井上ひさしのSF長編『吉里吉里人』はブラックユーモアとナンセンスのオンパレードで、『藪原検校』『ムサシ』『小林一茶』と戯曲も多く、三島戯曲『鹿鳴館』『黒蜥蜴』『十日の菊』『朱雀家の滅亡』『癩王のテラス』などと読み比べるのも一興である。

輪廻転生する人物
 『豊饒の海』が野心的とされるのは、日本の古典を雛形に、人が生まれ変わる東洋的輪廻転生の様相を、近代小説の形式に創出した点にある。
 第一巻の『春の雪』は、平安時代の王朝絵巻を思わせる優雅な貴族社会のストーリー。「若様」「清様」と扱われる我がままで夢みがちな美青年と「お姫様(おひいさま)」と呼ばれる淑女との恋物語。主人公の松枝清顕は明治維新で功をなした侯爵家の御曹司で、松枝家は渋谷の広大な地所に邸宅を構えている。一方の綾倉聡子は、公家の行儀作法を身に付けた、平安の世から帝に使える伯爵家の令嬢。清顕と2歳上の聡子は幼いころから姉弟のような関係で育てられていた。皇室を「お上」と仰ぐ貴族社会の生活が、気品ある筆づかいでつづられている。しかし、壮麗な世界も安逸な場ではなかった。
 聡子の美しさに惹かれる20歳の清顕は、勝気な聡子の挑発をうけたともいえる。やがて勅許が下り、聡子が洞院宮家への入内が定まる中、禁断の恋の恐ろしさを分かりつつ、密会・逢瀬を重ねる。青年の純粋な愛と苦悩に充ちた悲劇の結末が待っている。宮家へ嫁ぐ聡子の妊娠がわかると、極秘のうちに、中絶の処置がとられ大叔母が門跡の月修寺に送られ剃髪する。
 清顕には学習院の無二の親友・本多繁邦がいる。後に法曹界に出る本多は『豊饒の海』全巻に最後までかかわる重要な語り部。準主人公をしのぐ事実上の主人公として、転生を鳥瞰する唯一の証言者となっている。
 清顕と聡子の燃え上がる情熱は、小説のタイトルのように、雪のようにはかなく消える運命であった。心身が荒廃した清顕は、「死を以てしか癒されること」はない。病に冒され危篤の清顕の吐く「今、夢をみてゐた。又、會ふぜ。きっと會ふ。滝の下で」の言葉で第一部が終焉する。
 第二巻『奔馬』は愛国の情がみなぎる男性的なストーリー。38歳の本多は妻帯し、大阪裁判所刑事部の法曹人。何事も「理の勝つた」「論理の支配する世界に属してゐた」。ところが、奈良の神社で催された奉納剣道大会で、戦慄の出来事に遭遇する。
 奉納試合で優勝し滝にうたれていた若者のわき腹に、夭折した清顕とおなじ3つのホクロを認めたのだ。清顕がいまわのきわに吐いた言葉が忽然と蘇る。本多は、瀕死の清顕を聡子に引き合わせようと月修寺に赴いたとき、転生の秘儀の教えに接していた。その時の有様を思いだし、到底偶然とは考えられない不思議な一致に驚愕するのであった。本多の意識はそれ以来大いに乱れ、「彼がありありと見た轉生の不思議は、見た瞬間から、誰にも打明けられぬ秘密になつた」。人に知られると精神に異常をきたしたと疑われ、法曹界にいることはできなくなるだろう。この感覚はしばしば彼を襲うようになり、「目の前にうつりゆく事象が、現(うつつ)か幻か定めがたくなった」。
 神道の清浄な精神を帯びた18歳の主人公飯沼勲は、汚辱な世間とは無縁の、純粋を固めた凛々しい憂国の若者である。『春の雪』の哀切なムードから反転して、第二巻が「神風連史話」に及ぶと一気につき進む。反乱に失敗して憤死する志士たちの有様は、さらに次の死へと誘導される。いつも死を考え、日本の救国を夢みる勲は、同志を募りテロを企てるが計画は挫折。しかし死への決意はゆるがず、緊迫感は最後の場面へ一気に飛翔する。「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った」。三島の感情移入が投入されているこの有名な自刃のシーンは、読者の脳裏に長く留まることだろう。

愛と死をテーマに
 『仮面の告白』以来、『沈める滝』『憂國』など愛と死は三島作品の主要なテーマであった。『豊饒の海』の第一巻で愛とその脆さを、第二巻では鮮烈な死を描いている。神秘的な転生譚は、勲の「ずっと南だ、ずっと暑い。…南の國の薔薇の光の中で…」の寝言をもって第三巻『暁の寺』へつながる。
 物語は弁護士に転身した本多の47歳から58歳の間の出来事である。本多は、輪廻転生をめぐるイタリア、インド、タイなどの諸説・哲理の研究に没頭。しかし「正義の高み」から自意識を保ってきた彼も老醜には勝てない。克己心も失せ、この世の垢と情念を身につける薄汚い俗人になっていた。タイ王族の留学生ジン・ジャン姫が本多の別荘に宿泊したとき、書斎の秘密の鍵穴からのぞき見し、3つのホクロに淫らな快感を覚える彼であった。
 最終巻『天人五衰』の転生者は16歳の安永透で、舞台は1970年代。本多は76歳である。透を養子にして見守るが、盲目になった青年は期待した人間ではなかった。不治の病に冒され、余命いくばくもなく老いさらばえた本多は、転生の真実を見極めようと月修寺の聡子との邂逅を思いめぐらす。その心は、「壊れやすい硝子細工のやうな繊細きわまる世界を、自分の手の上にそつと載せて護つておかねばならない」という必死なる想いであった。
 身も心も衰耗した彼は、聡子と面会するため月修寺の石の門柱の前にたつ。夏の日差しのさす参道はゆるやかに門内へとつづいている。長編小説の終息の光景は、圧倒的な迫力をもって読者に迫ってくる。
 ところが、60年ぶりに再会した門跡・聡子からは思いもかけない言葉が吐かれた。2人の出会いは今が初めてで、清顕の名など聞いたこともないというのだ。「心々ですさかい」との門跡の一言が、呆然自失の本多の全身を包む。これまで脳裏に深く刻みつけてきた生の軌跡が無化される瞬間であった。学習院での清顕との交遊、聡子・清顕の逢瀬、転生の表徴としての標識、清顕、勲、ジン・ジャンへの連なりの全て、さらに彼の自意識や認識までがこなごなに粉砕される。
 夢ごこちで尼寺の内庭に佇むと、「これといって奇巧のない、閑寂な、数珠を繰るような蝉の声」だけが響いていた。「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている」。時間がとまったかのような夢幻な情景に、三島文学の美の極致が息づいている。

三島文学の総括
 三島由紀夫の生涯を俯瞰すると、その華麗さに目がうばわれる。創作における理知的なきらめき、創造的光彩はいうまでもなく、明晰な視座で、豊かな語彙と優美な修辞的表現から卓越した文学的世界が創出された。洗練された審美的作品が並び、まさに天才・奇才の名に恥じない作家である。
 彼の人生はきわめて能動的で、皇国主義の活動家という政治色の濃い相貌も脈打っていた。衝撃的な割腹死は、ナルシシズム的な狂言であったのか、それとも単純に狂気の沙汰だったのか。知人に45歳になったら死ぬと冗談のようにもらしていたというが、なぜ彼は死を急いだのか。
 彼の生きた時代は、日米安保反対の左翼運動が渦巻いた60年代。三島は61年に『憂國』、63年に『剣』、そして66年に『英霊の声』を世に送り、『奔馬』の取材旅行と並行して自衛隊に体験入隊した。次第に政治的意識を高め、急進的なナショナリズムへ傾斜していく。
 「盾の会」を結成したあたりから文壇人とのかかわりが減り、武人としての志操を強めていく。自決の2年前のエンタテインメント『いのち売ります』や1年半前の戯曲『ライ王のテラス』には死の影が見え隠れしている。同年、保守論客として東大全共闘との公開討論会に臨んだ。69年には評論『文化防衛論』を発表。戦後の日本文化を痛烈に批判し、伝統文化の総合主体である「天皇」を擁護し国防の必要性を論じている。
 三島は「小説とは何か」で、作品の終わり方を脳裏に描きながら執筆すると記し、『豊饒の海』の最終草稿はかなり早い段階で書き上げていたという。そうなると、執筆しつつ死と近接した境地を過ごしていたことになる。
 死の翌年、実父平岡梓が回想録『伜・三島由紀夫』で、息子の死について重要な指摘をしていた。「文を捨て、武を採って止むに止まれず遂にあの挙に出た」と。狂気でも精神錯乱でも名誉欲でもなく、ペンに代えて剣をとった行動ということになる。時代を経て、『豊饒の海』は三島文学の総括と評価されるようになるだろう。
(2021年6月10日付 776号)