各神学の長所と短所・下

連載・カイロで考えたイスラム(36)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

アシュアリー派神学
 アシュアリー派が理性第一主義から転換し、ハンバル派の精神を尊重しながら、天国と地獄の実在や最後の審判、復活、とりなし、悪魔の存在や誘惑など、伝統的なイスラム教教理に立ち返ろうとした点は長所といえよう。あまりに世俗化、形骸化しすぎた信仰を原点に戻そうとしたのである。信徒は、姦淫、窃盗、飲酒などの罪を犯しただけでは異端者にならないが、アッラーのほかに神の存在を信じる大罪を犯した場合は異端者となるとし、救いの範囲を拡大した。罪を犯した者の多数は、一度業火に焼かれても、ムハンマドのとりなしにより火中から救い出される、とした点は評価されよう。神は日々、天の最下層に降り立って、「何か願っている人はいないか、誰か我に許しを乞うている者はいないか」と尋ね給うというハディースの真実性を信じることは、神の心情の一端を証しするものとして評価されよう。
 ただ、宗教的改心に基づき、「コーランの章句は全く文字通りに解釈しなければならぬ」と結論し、ハンバル派の主張を数多く取り入れたので、時代に逆行することになった。
 信徒の間に異論や論争が起きたときは、必ずコーランと預言者のスンナ、全イスラム教徒の一致した意見、またはこれに代わるものに依拠して判断し、決して神の赦し給わぬ新説を出してはならないとしたことは、イスラム神学の発展を阻害することになった。
 予定論で、「人間はあらかじめ神がなし給うのでなければこれを為すことは出来ない。神の外に創造者はなく、すべて人間のなすことは神が創造し、予め定め給うたところに過ぎない」と主張、人間の責任分担を否定、悪の由来に関しあいまい性を残したことも欠点の1つだ。
 善悪や楽しみ、苦しみ、全ては神の叡智から起こるものだとしたことは、真理の探究を投げ出したに等しいのではないか。また、金曜礼拝を遵守し、礼拝の指導者に絶対的に服従するよう要請し、これに背くのは迷いだと断じたことは、理性や学問、心理や信仰の探求を妨げることになった。アシュアリーは常に、理性の自由をコーランに反しない程度にのみ限っていたとされるが、これもまた短所だろう。コーランを絶対視することにより、時代的な価値観の変遷を無視する可能性があるからだ。

ガザーリー派神学
 理性と信仰との矛盾に突き当たったガザーリーが、真理を求めて10年も彷徨し、「瞑想によって神と直接触れるのでなければ決して真の救いは得られない」ことを確信したことは大きな長所だろう。「宗教は体験しなければならない」とも主張、理性と体験の両面から信仰を確立すべきとした点は大いに評価されるべきだ。
 彼は、「いたずらに伝統的教えのみに固執して悟性を無視するものは愚人であり、悟性のみに頼ってコーランとスンナを顧みぬ者は迷っている」とした。また「我々が全精神を傾倒して神のみを完全に愛するならば、全ては神の被造物であるが故に全てを愛することが出来る」と悟り、「神を愛し、神の心を自分の心とするなら、神が全てを愛しているのだから、自分も全てを愛することができる」とした。
 全人類がその境地(神の心情)に到達するなら、互いに限りなく愛せるのだから、この世に争いは無くなり、永遠に平和な世界を創造しうることになる。全世界の問題の原点を、「神の心情がわからず、神の心情から外れた人間にある」点を指し示したことは、イスラム神学が最高度に発展し、結論付けたことを意味するもので、大いなる長所と言えよう。
 また彼は、神は人間が認識できる存在ではないとする当時の大多数の神学者の見解に対し、神は人間の愛の対象だ、と極めて身近に考えたことも偉大である。神を人間の愛の対象と考え、神と直接触れて、神の心情を自分の心情とすれば、他の全てを愛することができるとの境地に達したことは大いなる長所だが、人間を神から遠ざけ、悪に誘惑する悪の根源の正体や、善なる神から悪が生じた理由など、深刻な歴史的神学問題への回答は避けたのが短所だろう。
 終末や復活、イエスの再臨などに対する見解、すなわち救いに対する歴史的問いに対して明確な回答を示しておらず、スーフィズムの中に自己陶酔した感じさえさせられるところも短所なのではないか。ことに、コーランにはイエスが再臨し、救いを完成させるとの予言が記してあるが、それに対するガザーリーの考えは今のところ明確ではない。
 神が愛であることを実感し、その愛を持てば、いかなる人をも愛することが出来るとした点は大いに評価できるものの、一方で、堕落し、罪と戦いの中で苦しむ人類を見つめて、人間以上に苦悩する神の実体にどれほど迫っているのかは不明だ。出会った神の実体が気になる。
(2021年4月10日付 774号)

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