「市民宗教」を失った米国の混乱

連載・宗教で読み解く世界情勢(59)
宗教問題アナリスト 小笠原員利

 今回の大統領選挙は、米国内の分断が危険なレベルに到達していることを改めて示した。特に2000年代以降、共和党と民主党を隔てる分断線は急速に深まった。今や、彼らは全く別の国の住民であるかのように見える。自国の歴史に対してすら、一方には自由と民主主義の旗のもとで目覚ましい発展を遂げてきた道程を誇る人々がおり、他方には奴隷制や弱者・少数者差別で血塗られた白人男性の傲慢と偽善の歴史だと断罪する人々がいる。その衝突のレベルは、今や暴力的な次元に至っている。リベラルな主流メディアが批判する極右白人至上主義者ばかりではない。表向き「平等」の旗印を掲げたBLM運動すら、その中核には暴力的な革命を辞さない過激派が潜んでいる。
 執筆時点では、まだ最終的な結果は出ていないが、政権が民主党、共和党どちらの手にわたっても、この分断を放置したままでは米国の未来はないだろう。「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分かれ争えば倒れてしまう」(ルカ伝11章17節)からだ。かつて民主主義の模範と仰ぎ見られた米国は、民主主義の最も恐ろしい可能性…「多数者による専制」の悪夢に怯え、それぞれが自らを勝利者の立場に置くべく、命懸けの闘争を続けている。「敗北」はすなわち「隷属」を意味するからだ。彼らはお互いに、相手が支配する世界に耐えられない。なぜ、これほど絶望的に民主主義は劣化してしまったのだろうか。
 この状況に笑いが止まらないのは中国かもしれない。一党独裁の中国と、多様な政党を国民が自由に選ぶことができる民主主義社会と、どちらが優れているのか。少し前までは世界中の多くの人々が、躊躇なく民主主義を選んだことだろう。しかし、今はどうだろうか。EU離脱をめぐって混乱を極めた英国や、移民の統合に苦しむヨーロッパの国々に加え、米国までもが、互いの陣営を犯罪者であるかのように罵り合う不毛な戦いを続けている。それでもなお、私たちは一党独裁よりも民主主義が優れていると主張することができるだろうか。
 建国以来、二百数十年にわたる米国の歴史を振り返る時、そこに全く意見の対立がなかったわけではない。そもそも独立戦争を共に戦った建国の父たちですら、目指す国家像については意見の相違を抱えていた。奴隷制をめぐる葛藤は南北戦争に発展し、同じ米国民同士が血を流しながら争った。公民権運動をめぐる混乱も記憶に新しい。
 しかし、それらの試練を通過してもなお、米国社会はその都度、驚くべきレジリエンスを発揮して一体性を取り戻し、国難に際しては党派の違いを超えて大統領のもとに結束してきた。民主・共和の二大政党がしのぎを削り、多くの人種、民族を抱え込みながらも社会としての安定性を失わない、その姿に世界の人々は憧れ、尊敬にも似た気持ちを抱いてきたのである。
 党派性を越えて、米国社会の一体性を担保してきたものは何だろうか。かつてロバート・ベラーは米国民がもつ「市民宗教」について論じた。キリスト教とは明確に区別され、ユダヤ教徒や、新しくこの国に加わった人々をも包摂するこの「市民宗教」は、米国を神の選びを受けた特別な国であると教えてきた。英国王によって抑圧されていた民が、モーセのごときワシントンに率いられた建国の父たちによって解放を勝ち取り、独立宣言と憲法を経典として、あらゆる人々が自由を享受できる新天地を作り上げた。
 その教義に反する奴隷制の罪を贖ったのが、イエス・キリストの役割を果たすリンカーンの死と南北戦争の犠牲である。そうして勝ち取った自由の理想のもとに、多様な民族と人種が集い、全世界の抑圧された人々のために模範を示す。それこそが米国の使命であり、祝福(発展)の源泉であると教える市民宗教が、世俗的な米国社会に統合をもたらしていたというのである。
 民主主義に必要なものは、意見の異なる人々に対するリスペクトであり、議論を尽くして得られる答えが最善であると信じ、受け入れる心の姿勢である。米国において、それを担保していたのが市民宗教であり、共通の理想をすべての国民が共有しているという信念だった。
 しかし、現在の米国においては、その市民宗教が半ば効力を失っている。正当な選挙によって選ばれた大統領の権威すら、国民の約半数が否定する社会になってしまった。果たして、再び米国民が一つになる日はくるのだろうか。その運命は、自由と民主主義に対する世界の信頼をも左右する。
(2020年11月10日付 769号)

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