金光大神(上)

連載・岡山宗教散歩(22)
郷土史研究家 山田良三

金神が息づく地に
 岡山県浅口市金光町にある幕末三大新宗教の一つ、金光教は、毎日、早朝から夕方まで、教主が参拝者の願いを神に届け、神の願いを参拝者に伝える「取次」が中心の、日本の宗教の原型のような姿を保っている教団です。人は神に生かされ、神と人と共にあるという教祖金光大神(だいじん)の信仰が今も息づいています。
 金光大神(教祖が天地金乃神から授けられたご神号)は文化11年(1814)備中国浅口郡占見村香取(うらみむらかんどり)(現浅口市金光町占見)に、香取十平と妻しもの5男3女の次男として生まれました。幼名は香取源七です。
 占見村は当時、備前岡山池田藩の預領でした。占見近辺には陰陽道で知られる安部晴明の霊墳や供養塔、館跡の地名が遺り、安部晴明のライバルとされた芦屋道満の墓や道満池もあります。占見廃寺跡があり、古代から郡内仏教の中心地でした。北方の山には、安部晴明が天文観測をした阿部山や阿部神社があり、遥照山上には慈覚大師円仁開基とされる厳蓮寺薬師堂があります。厳蓮寺は比叡山延暦寺になぞらえて根本中堂を中心に伽藍があり、山岳信仰の道場だったと伝えられています。占見にある天台宗泉勝院は慈覚大師円仁開基の寺院で、占見村の菩提寺でした。
 遥照山を越えた北側が、旧山陽道の下道(しもつみち、現倉敷市真備町〜矢掛町)で、吉備真備の出身地です。吉備真備は遣唐使として唐に渡り、在唐中陰陽道を学び日本に招来、陰陽道の祖となり子孫が易学を伝承し、遥照山を越えた浅口からも学びに行っていました。陰陽道に基づく暦学や方位学が広まり、その中に、金光教祖の生き方と信仰に深く関わった方位神の一つ金神の俗説がありました。この地域は修験道も盛んな地で、浅口一帯は本山派の児島五流の傳法院の霞下にあり、石鎚山の先達も多くいました。
 父親の十平は実直で信仰心篤く、体が弱かった源七を背負い、氏神の大宮神社などに参拝を重ねていました。母親のしもは慈愛に満ちた人で、源七が川手家に養子に入ってからも見守り続けてくれていました。
 12歳の年、隣村大谷村の川手粂治郎の養嫡子となり、名を川手文治郎としました。養子入りの際、養父から「嫌いなものはないか、好きなものは何か」と聞かれて、「嫌いなものは麦飯、好きなことは寺社参り」との答えに、養父は快く応えてくれました。当時大谷村は浅尾藩蒔田家の所領でした。
 13歳から2年間、大谷村の庄屋小野光右衛門のもとで手習を受け、読み書きそろばんと人としての在り方を学びます。光右衛門は天文、暦学、測量、占いや算学に優れ、その名は京や江戸にもとどろいていました。庄屋として村人や地域のために熱心に働き、浅尾藩から大庄屋として抜擢されます。京の土御門家からも入門依頼され出仕、著した算学書『啓迪算法 指南大成』 は明治初期まで再版を重ねました。光右衛門の長女柳(りゅう)の子が二松学舎大学の創始者三嶋中州です。文治郎は手習のころから光右衛門に信頼され、藩役所への使いもよく任されました。後に金光教教祖として歩む上で役立つ実に多くのことを光右衛門から学んだのです。
 17歳の年、光右衛門の息子の四右衛門達と伊勢参りに行きます。翌年、養母が41歳の初産で男子を産み鶴太郎と名付けられます。この年、領主の蒔田廣蓮が家督相続し、通称が荘次郎から、領内百姓の「次郎」名が差し止めとなり、名を國太郎と改めます。
 この間、養父母のもとで熱心に家業のために働いていましたが、23歳の年の7月、弟鶴太郎が6歳で病死します。高齢で生まれた実子の死に衝撃を受けた養父は翌月、痢病を患い66歳で我子の後を追いました。その時養父は、文治郎の行く先を案じ、家名を「川手」から「赤澤」に戻すよう遺言します。文治郎は家督を継ぎ、古川八百蔵の長女とせ(18歳)を妻に迎え、さらに家業に精を出し、村役や村の公用にも熱心に働きました。40歳の頃には、田地も倍近くに増えていたそうです。

金神七殺の祟り
 26歳で長男亀太郎が生まれます。ところが文治郎が29歳、亀次郎が4歳の時に親子で悪性の下痢を患い、亀太郎が亡くなります。悲しみの中、次男の槙右衛門が生まれました。
 30歳で納屋を増築。普請に際しては、金神の障りが無いようにと方位家に吉凶を尋ね、とことんそれに従いました。紀州に発注した用材が予定日に間に合わないとなると、急ぎ玉島で用材を確保、日を合せて普請しました。翌年門納屋が完成します。この年、名を文治に改めています。
 32歳の年に、三男延治郎(後の浅吉、金吉)が生まれます。当地では33歳は男性も厄年とされていたので祝宴を開く代わりに「お四国巡り」(八十八ケ所巡り)に行くことにしました。34日かけて巡礼、難儀な札所は沿道から遥拝して済ます人もいましたが、「そんなことなら家で祈るのと同じ」と、遊び半分の参拝を戒めています。徹底して信心に篤い文治でした。
 34歳の年、長女ちせが誕生、初めての女児で喜んだのもつかの間、翌年6月に病気で急に亡くなり、再び悲しみを味わいます。36歳となった嘉永2年(1849)4月、四男茂平(後の石之丞、萩雄)が誕生。その暮れの12月、親戚から家を買わないかとの話がもたらされます。
 家族が増え、六畳一間に納戸の家では狭く、広い家は渡りに船でした。購入を考えますが、時は大晦日、方位が気になり、庄屋の小野四右衛門に尋ねます(光右衛門は大庄屋となり、息子の四右衛門が庄屋となり、易学も伝授されていた)。すると「よし」との答だったので買取を決めました。
 ところが年明け正月に浅尾の小野光右衛門を訪ね次第を話し吉凶を質すと、「年周りが戌年、文治も戌年で普請はならぬ」とのこと。すでに買取を決めていた後なので、「何とか繰り合わせ願えぬものか」と問うと、「方位と日柄を合せ『小屋掛け』をして仮移転すればよし」との指図を受けました。方位を正し小屋掛けをし移転することとし、槇右衛門とともに仮小屋に移り住んで2か月、槇右衛門が病となりました。医師を呼ぶと「心配いらぬ」と言っていたが、急に容態が悪化、手に負えなくなります。講中の人達が裸まいりして祈願してくれたものの息を引き取ります。9歳でした。
 槇右衛門の葬送の準備中、今度は三男延次郎と四男茂平が疱瘡に罹ります。幸い2人は軽くて済み、全快を祝い神主を招いて感謝の祈りを捧げました。度重なる不幸、普請はならぬと言われたものを、何とか繰り合わせてと願った勝手を深く反省します。そんな中、今度は飼牛が急死します。
 普請は進み、光右衛門の指導を受け、金神に拝して棟上げ、移転を完了します。金神を祀る神棚も設えました。六畳二間に納戸のついた家でした。後にこの家から広前が始まります。現在は復元されて「金光教立教聖場」とされる建物です。
 翌年8月、再び飼牛が亡くなります。5年の間に、5人の家族と2頭の牛の死を迎え、「金神七殺(しちせつ)とはこのことか」とあらためて無念の思いを募らせます。この年の12月次女が誕生、養母の「いわ」が、私と同じ干支だからと「くら」と名付けました。
(2020年11月10日付 769号)