日本の「原風景」が生きる力に

2020年11月10日付 769号

 熊本県天草市のキリシタン史跡を巡ったとき、山本七平が日本的資本主義の倫理の始まりとする鈴木正三(しょうさん)の銅像に出会った。山本は、日本をつくった2人の思想家として、江戸時代前期の鈴木正三と後期の石田梅岩を挙げている。
 近代資本主義の条件は個人の所有権に対する明確な意識であるとする山本は、西欧にその転機をもたらしたのはプロテスタンティズムだが、そうした宗教や市民社会の倫理がない日本では何だったのかと考え、その解を鈴木正三に求めたのである。

職業修行論
 徳川家康に仕える三河武士の家に鈴木正三が生まれたのは本能寺の変の4年前で、関ヶ原の戦と大坂の陣の後、旗本になり、将軍を守る大番組に出世する。ところが、42歳の時、突然、実子重辰を伴い出家、曹洞宗の僧になった。当時、旗本の出家は禁じられており、家名断絶もあり得たが、功績を知る秀忠は「ただの隠居」と黙認し、家は養子になった重長が継ぎ、重辰は弟重成の養子になった。関ヶ原の後、正三が仏教に傾倒していったのは、戦国時代に死と向き合ってきた武士としての緊張感を、平和な時代にも保ち続けるためだったという。
 正三の思想は「職業修行論」である。宇宙の本質は「一仏」であるとし、人々が「心なる仏」どおりに生きるようになれば、争いのない平和な社会ができるとした。そのためには「心なる仏」が貪欲・瞋恚(しんい、怒りや憎しみ)・愚痴の三毒に冒されないため、それぞれの仕事を修行として励むよう勧めた。
 『四民日用』では、農民には「農業則仏行なり」とし、「商人日用」では商人は自らを蔑むことなく、「一筋に正直の道を学び行え」とした。この「正直」が正三の原則で、山本は「結果としての利潤は善である」という思想が日本を変えたと評価する。ヨーロッパ資本主義のベースになったのは信仰ある人たちへの信頼だが、日本では神仏を信じる人たちの正直がそれを醸成した。
 その正三が天草に来たのは、島原の乱後に天領となった天草の初代代官に就任した弟の重成に、「民の心を癒やすため」招かれたからである。
 重成は家康の近侍を務めた後、信州の材木奉行や上方の代官を歴任、家族は江戸に残し、各地を転任していた。1637年島原の乱には鉄砲隊長として参陣し、老中松平信綱に信任され、乱後は天草の実態調査に当たり1641年、初代代官に任じられた。軍事面は熊本藩の細川家が担当し、重成は富岡城下に住み、民政に取り組んだのである。
 中世の天草を支配していた天草五人衆は肥後の南半分を支配していた小西行長の影響でキリシタンになり、30の教会があった。関ヶ原の戦いの後、小西行長は斬首され、天草は唐津藩の飛び地となるが、唐津藩寺沢家の圧制が天草の悲劇の始まりとなる。
 天草の石高は2万1千石なのに寺沢検地で4万2千石とされ、石高の4〜6割を納める税制から、農民は収穫のほとんどを徴収されたのだ。島原の乱の原因はキリシタン弾圧に加え苛酷な年貢搾取にある。一揆軍は3万7千人が死亡し、天草では人口が2万人から8千人に激減、社寺は焼かれ、田畑は荒れ果てた。
 天草の復興のため幕府は農民の移住を促した。重成は、キリスト教に救いを求めながら破れた人々の心を再生するため、兄の正三を招き、幕府から300石の許可を得て、各地に神社や各宗派の寺を建立した。朝には鎮守の森から太鼓の音が響き、夕べには寺の鐘が聞こえるという、日本の原風景に戻そうとしたのである。仏教を日常の暮らしに生かす正三の著作の多くも、天草での経験から得たものだろう。

鈴木さま
 重成は殖産にも努めたが、重税の圧迫から逃れられなかったので、再検地を行い、実態に合う石高半減を老中松平信綱に訴えた。
 しかし、幕府の承諾は得られず653年、重成は建白書を残し、江戸の自邸で切腹。農民のために命を投げ出す武士が現れたのである。幕府は病死とし、養子の重辰を2代目代官に任じ、その7年後、石高を2万1千石と認めた。
 これにより復興した天草の人たちは、重成の遺髪を納めた遺髪塚を築く。その地に重成を祀る鈴木神社が建立され、後に正三と重辰も合祀、やがて遺髪を分け各地に「鈴木さま」の塚が設けられた。3人の鈴木が天草で神となったのである。

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