新型コロナで問われる宗教の真価

宗教で読み解く世界情勢(52)
平和政策研究所研究コーディネーター 小笠原員利

 世界中で猛威を振るう新型コロナは、各地の宗教活動にも深刻な影響を与えている。特にその中核を占める礼拝は、多くが教会、モスクといった密閉された空間に集まり、経典を唱え、歌を歌い、時には大声で祈る。米国教会の代名詞ともいえる大規模な聖歌隊を中心とした賛美礼拝などは、感染を誘発しやすい、いわゆる「三密」(密集・密接・密閉)の最たるものだ。これらの礼拝に自粛の動きが出ていることはいうまでもない。
 また、宗教者が司ることが多い婚礼や葬儀、さらにはお祭りも次々に縮小、延期、中止に追い込まれている。ムスリムが最も重視するメッカ・メディナへの巡礼も、サウジアラビア当局によって禁止された。こうした中でインターネットを通じた礼拝や、家族・地域での小規模集会を奨励する教団も増えており、新たな信仰コミュニティの在り方が模索されている。
 一方、韓国では新興宗教の「新天地」が数千人規模の巨大なクラスターを形成してしまい、教祖が土下座の謝罪に追い込まれる事態となった。同国ではその後も、より小規模だが、当局の自粛要請を無視して礼拝を続けた教団が感染を広げて批判を浴びた。さらに住民に外出禁止令が出されている米フロリダ州では、当局による再三の休館要請を無視して礼拝を強行したメガ・チャーチの牧師が逮捕された。容疑は不法集会を行ったことと、衛生緊急規定違反である。一方、教会側の弁護士は、感染防止に向けて特別な対応をしていたと主張し、当局の宗教活動に対する差別的対応を批判した。信教の自由を主張しているようだが、このケースで幅広い支持を得ることは難しいだろう。
 古来、宗教はこの世の法を超越した神の命令に従い、圧政に対抗して、世の中を変革する大きな力となってきた。特にその草創期において宣教の多くは地下活動の形態をとり、当局の摘発によって大量の殉教者を生み出すことも少なくなかった。現代中国においてもウイグルのムスリムや非公認教会のキリスト教徒が、当局の監視の目を潜り抜けながら宗教活動を行っている。しかし、言うまでもないことだが、これらとコロナ禍のもとでの礼拝強行とは全く性質が異なっている。
 多くの宗教者たちが時の権力や法律に抵抗したのは、それらが理不尽なものであり、人々の救済を妨げるものだったからだ。一方で現在、各国で行われている外出制限や大規模集会の禁止は、極めて合理的な根拠に基づいて、人々…特に高齢者や持病を持つ弱者の生命と健康を守るために実施されている。
 公益性や透明性が最大限に尊重される現代民主主義社会にあっては、各種法律や社会制度も最大多数の最大幸福に向けて設計されている。為政者や公務員には宗教者並みの倫理基準が要求され、経営者も企業の社会的責任(CSR)を重視する。人々の幸福のために活動するのは、今や宗教者だけではないのだ。
 現実に新型コロナの脅威に対しても、医療従事者は自ら感染の危険に身をさらしながら、事態の悪化を食い止めるために戦っている。政治家や専門家も、経済へのダメージを最小限に抑えつつ、感染拡大を防ぐ最善の策を求めて、ぎりぎりの判断を迫られている。さらには売り上げが落ち込み、資金繰りが悪化する中で社員の雇用を守ろうと苦闘する経営者がいる一方で、自社の生産ラインをマスク生産に振り向けた企業もある。人類が一丸となって、新型コロナを早期に収束させようと努力する中で、宗教者が感染拡大を助長するような行動をとるなら、それは「独善」と言うほかないだろう。
 そもそも宗教は、決して非科学的な迷信を信奉するものではない。むしろ、各時代において宗教者は最高レベルの知識人だった。わが国に伝来した奈良時代の仏教や近代のキリスト教をみても、宗教者は単に人々を教化しただけでなく、医療や教育の分野でもめざましい業績を上げ、貧困や疫病との闘いにあってはその最前線に立って貢献した。それは宗教の本義が人々の苦しみを取り除き、真の救いと幸福を希求するものだからだ。
 もちろん、宗教は変わりゆく時代に変わらない価値を伝える重要な使命を担っている。一方で、刻々と変化する社会情勢の中で、求められる行動は変わってくるだろう。東日本大震災の際には、被災地への寄付やボランティアで多くの宗教者が活躍し、被災者の心のケアに寄り添った。コロナ禍のもとでも、宗教者にしかできない貢献が必ずある。その最前線における救済活動こそ、最高の礼拝であることは間違いない。
(2020年4月10日付762号)