独創性こそわが道

連載・シュヴァイツァーの気づきと実践(9)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫

 エピゴーネン(猿まね)という言葉に衝撃を受けてからというもの、アルベルトは独創的なわが道を行くことに気を配った。その結果生まれたのが、学問的には「カントの宗教哲学」と「イエス伝研究史」であり、音楽的には「バッハの研究」であった。
 そればかりでなく、生き方そのものが独自のものであった。寸暇を惜しんで学ぶため、夜中に寝るのはわずか3時間。神学と哲学で博士号を取得し、この間にもパイプオルガンの研究と演奏活動をつづけた。さらに副牧師として説教をしたり、教会員の世話をする責任もあった。
 20代の後半になると彼は「30歳以後は直接人びとのために働く」という神との約束に真剣に向かうようになった。人のために尽くすとは言っても、何をしたらよいのかわからない。アルベルトはいろいろなことを試みた。孤児院や老人ホームで奉仕したり、入院患者を見舞って悩み事を聞いたりした。
 ところが、どれにも彼は満足できなかった。人びとのためになることには確かに充実感があった。しかし、どの奉仕の場にも役所がかかわっていて、何をするにも規則や制限があった。彼独自の思いが生かせなかったのである。約束の30歳はあと半年に迫ってきた。焦る気持ちに押されて、彼は思い悩んだ。どうしたら私らしく奉仕できるのか?
 29歳(1904年)の、秋のある朝のことであった。彼は机の上に置かれていた、パリ伝道協会の小冊子を取り上げた。何気なく読み始めたアフリカからの伝道報告に、彼は襟を正し、真顔で読み進めた。後に彼は述懐している。
 「読みおわったとき、私はそっと小冊子を机の上に置いた。長年の模索は終わったのである。私は医者としてアフリカに行く決心をしたのである」
 書かれていたのは、アフリカで奉仕しているフランス人宣教師の報告であった。1900年前後、まだ暗黒大陸と呼ばれていたアフリカである。この地から多くの黒人が奴隷としてヨーロッパやアメリカに送られた。奴隷制は廃止されたものの、黒人は相変わらずさげすまれ、ろくな職業につけなかった。アフリカの密林に住んでいた黒人は、おどろくほど原始的な生き方をしていたのである。狩猟と自然植物の採取で生活し、呪術が横行していた。
 コンゴ地方はフランスの植民地となり、フランスの事業家や商人が我が物顔に立ち振る舞い、黒人を安い賃金でこき使っていた。良質な材木の切り出しが主な仕事だった。黒人たちはさらに、ヨーロッパから持ちこまれた麻疹、天然痘、梅毒などの病気でもなやまされていた。このような報告がアルベルトの心に突きささったのである。
 医者としてアフリカに行く決心をしても、医学は彼の専門外である。医学部へ再入学して医師になるには数年かかる。この決意を身内や知人・友人に知らせると、驚きと猛反対が巻き起こった。お前はヨーロッパでこそ価値のある人間だ。アフリカで何ができる! 反対の先頭に立ったのは、オルガンの師、ヴィドール先生であった。
(2020年3月10日付761号)