『レイテ戦記』大岡昇平(1909〜88年)

文学でたどる日本の近現代(7)
在米文芸評論家 伊藤武司

戦闘で負傷、捕虜に
 育ちのよさを感じさせる若いころの面立ち、壮年になってからの端正で精悍な風姿から想像されるが、大岡昇平は東京の山の手育ちで、江戸っ子的気風を合わせもつ作家である。彼は35歳で二等兵として召集され、フィリピンのミンドロ島に派遣され、負傷して米軍の捕虜となった。彼の脳髄深くに記憶された戦争体験は、日本に平和がもどってきても風化することはなかった。
 大岡には、スタンダールの『パルムの僧院』などのフランス文学に啓蒙された心理小説のジャンルとして『武蔵野夫人』や傑作『花影』がある。また、戦争をテーマとした戦記文学『俘虜記』は出世作となり、同系列の『野火』は国際的に名声を博した。歴史小説の分野では『天誅組』や未完の『堺港攘夷始末』、推理小説『事件』を手がけている。フランス文学の翻訳者・研究者としても知られた。
 国家間の戦争は終わっても、終わりのない宿命に似た想念を持ち続けた人である。それゆえに戦争という凄惨な実態を、書くことで再現させ、死の淵に立たされた極限状況の人間の本質や戦争の意味を冷静に、執拗に見定めようとした。戦争の中に置かれた自己を厳しくストイックに見つめたが、その素地となったのが、ミンドロ島の戦闘で負傷し、捕虜になった体験である。しかも、彼は戦争のみに光を当てたのではなく、戦争を通して人間観や世界観に踏みこんだ。
 彼の一生は、戦争の傷跡を色濃くひきずりながら、生と死に向き合うものとなったのである。創作上の心得としての、作家の矜持を底流に事実を執拗に探る妥協のない姿勢は、ひたむきな行者の姿をほうふつとさせる。大岡の戦争文学における文章的特徴は、事実と実証を最大限に用いた堅牢で明晰な文体である。実証に対する執念・執拗さはよく知られていて、その形式は、太平洋戦争で最も激戦地の一つとなった、レイテ島攻略を記録する長編『レイテ戦記』で究極のレベルにまで高められた。
 日米両軍がレイテ戦に投入した兵力は、米側がピーク時に25万以上、一方の日本兵は8万4千、戦没者は7万9千で、米側の死傷者は1万4千人に達した。
 『レイテ戦記』は、日米両軍が智謀を総動員した戦争の壮大な絵巻物を思わせる大作だが、戦争物につきものの戦闘の真柏な潤色や派手な表現は避けられている。単なる回想録でも、技巧をこらした痛快な戦争物でもない。どこまでも戦争という現実に真摯に向き合う精神が一貫して流れている。本作品の特色は、自身の実体験を入れず、創作的な虚構から距離をおいたところにみられる。
 300冊に及ぶ資料を参照した30章からなる長大な作品、戦禍を潜り抜けた作者自身が、自己の宿命として編んだ渾身の戦記文学の集大成。そして、戦争に批判的な視座を保ちながらも、単なる戦争否定者とはならなかった。
 彼は日本とアメリカの両方の戦争資料、公刊戦史、現地の戦闘部隊の報告、さらには生存者たちの証言を根気よく収集し、厳正・公平に分析・検討することで戦闘の全貌の再現に努める。誇張や粉飾をできる限り排し、どこまでも冷静に透徹した観察力をもって事実を積み上げてゆく筆法である。
 大江健三郎は、解説文で、「日本文学が比較する例をほかに見出しえぬ巨大な作品」と批評している。作者の実直さは、戦争という国家が総力を挙げて取り組んだ巨大なドラマに分け入り、詳細に調べ上げた様相を、あますことなく再現する。万感の思いがあるはずの戦争体験を、一連の戦争文学に綴ってきた集大成が本作となったのである。
 戦争で死んだ戦友への熱い思いを、深い哀惜・哀感の情感を内蔵させてペンを走らせたのであろう。文中の「死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである」は、自身が聞いた声であったといえる。戦争に翻弄された兵たちの内奥に密着し、それを克明に記録しつつ、作品に生命を吹きこんだのである。
 戦争の不毛と不条理を追及しながらも、表現は決して大げさではない。重い内容を記述しながら、大岡に慰めがあったとすれば、死んでいった兵たちとの心の「交信」であったろう。彼らへの追悼の念を、巻頭に短く「死んだ兵たちに」と刻んでいるのである。
 本書執筆の動機について、「絶望的な戦いを戦いつつ死んだ兵の霊を慰めるため」と強調している。戦争の悲惨さや愚かさを真正面に据え、極限にまで追いつめて書き上げた壮大な鎮魂歌といえる。
 戦友たちがばたばたと屍になってゆく様を追想するたびに、その記録を残したいという切なる思いが大岡を揺り動かしたのだ。戦争体験から眼をそらさず対峙し、回顧し、黙考し、書かざるをえなかったのである。そしてもう一つの執筆動機は、「旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣」であった。
 大岡の気骨ある心根は、後に、学士院会員に推されたときに発動された。捕虜として生き残った者が国の栄誉を受ける資格はないと固辞したのである。
 人を殺すことばかりが戦争ではない。作者は戦争のロマンチシズムに酔っているわけでも、戦争賛美者でも、単純な戦争批判者でもない。特攻作戦に加わった特攻隊員が、狂気のさ中でも強固な意志力で一途に進もうとする精神に対して、敬意と畏敬の念を禁じ得ない、と率直な心情を告白している。
 興味が尽きないのは、フィリピン攻防における日米両軍の作戦の比較で、米軍の勝利の根拠を冷静に考証する過程である。
 戦争という不条理な限界状況で、殺すことを運命づけられた兵の群れ、血なまぐさい状況や、瓦解した規律の中で生死の境を彷徨する赤裸々な人間模様を追跡する。徹底したリアリズムへの執念は、戦争という現実を克明、精細に描くことに傾注された。
 レイテの戦場では、日本軍は米軍だけではなく、抗日フィリピンゲリラの絶え間ない襲撃とも戦った。そのゲリラの間にも親日派、親米派の争いのあったことを記載している。
 第13章は、レイテ戦を象徴するリモン峠の攻防戦である。移り動く戦場の一コマ一コマは、ドラマを眼前に見すえるような臨場感に満ちている。7日間にわたる戦いの末、日本軍は壊滅する。敗軍となった日本兵には凄絶で過酷な現実が待ち構えていた。投降を恥とする軍の規律は自決を命じていた。アメリカ軍の掃討戦が始まると、みるみる死体の山が築かれていった。山野に逃げ惑う日本兵はおびただしい餓死者となった。おぞましい人肉食いのうわさも広がり、言葉では表現できない文字通りの生き地獄を体験することになる。

戦争で人間の実相描く
 こうして小説は、壮大な記録文学となった。ひたすら事実を集積しながら、この戦争がなんであったのかが立証される。多くの戦友の死を見つめてきた彼自身が、死をまぬかれてきたことが、ある種の負い目になったことは想像できる。死者たちへの愛惜を心に刻みながら、誠実に書きまとめていったのである。
 日米双方の軍部上層部への批判は先鋭的に描かれている。マッカーサーを総帥とするアメリカ軍は、昭和20年1月を期して20万の兵力でレイテ島北部に戦線を展開した。終始主導権を握る米軍の前に、2万の日本軍は大本営から見放され、孤立化した。その瓦解は時間の問題であった。このアメリカ軍の大作戦は、マッカーサーの虚栄心から始まったというのが大岡の見解である。
 「マッカーサーの目的は、アメリカの面子を救うことであった。三年前、アメリカ兵は日本兵が来ると逃げた。俘虜となって歩かされるところを、フィリピン人に見られていた。……『アイ・シャル・リターン』の約束は、フィリピン全土をアメリカ軍の手で解放しなければ、完全に果たされたとはいえない、と思い込んでいたのである」と。
 組織的な反撃は散発的で、日本軍はバラバラに分解してしまう。食料は尽き、小銃・弾薬・銃剣を捨て、飯盒をぶらさげて山中を幽鬼のようにさ迷ったのである。
 エピローグはレイテ戦の総括である。作者は、戦争における日本の政治と硬直化した軍組織の冷酷・無責任な体質を容赦なく指弾する。こうした無能・無策はアメリカ軍の体制にもあることを見抜いて、大岡は戦争自体を弾劾する。
 そして米軍と最前線で対峙した日本軍を、次のように振りかえる。「日本国民は強いられた戦いにおいて、その民族的な国家観念と、動物的な自衛本能によって、困難に堪え、過酷な死を選んだ。軍隊が敗北という事態に直面する時、司令官から一兵卒に至るまで、人間を巻き込む悪徳と矛盾にもかかわらず、よく戦ったのである」と。しかし、日本は負けるべくして負けたというのが作者の結論となった。
 大岡の講演「レイテ戦記の意図」で、「戦争は勝ったか、負けたかというチャンバラではなく、その全体にわれわれの社会と同じような原理が働いている。軍隊を構成するいろいろな人間の意志、欲望、あるいは弱さ、あらゆる感情的な要因がそこに働いている」と指摘した。同じような感慨は、『俘虜記』の捕虜たちの日常生活でも述べられている。
 作者は日米両軍の戦いのみを俎上にしたのではなかった。戦争の陰で、戦闘員以上に深い傷をうけた無辜の人びとのいたことも記録している。レイテ島における日米両軍の戦闘の一番の被害者は、国土を踏みにじられたフィリピンの住民たちであった。彼らの歴史をさかのぼれば、スペインの400年の植民地化に始まり、アメリカ、日本、再びアメリカへと移行し、結局、フィリピン人が最大の被害を被ったのである。敗者にとっても勝者にとっても戦争は悲惨であり、当事者でない者にも無数の犠牲を生みだしたのである。
(2020年3月10日付761号)