評論『惜しみなく愛は奪ふ』有島武郎(1878〜1923年)

文学でたどる日本の近現代(5)
在米文芸評論家 伊藤武司

 有島武郎(たけお)は一種つかみどころのない人物といわれてきた。そうした評価は、彼のたどった経歴や思想的遍歴を一瞥するとある程度は首肯できるように思われる。
 作家や評論家としては、大正期の文壇、白樺派の一員として創作に励んだ人である。小説の代表作は『カインの末裔』や自由奔放な自意識をもつ女性像を書いた長編『或る女』であろう。さらに、彼は、大学で英語の教鞭をとる立場にもあった。
 ところが、人望の厚い紳士・教養深い知識人の彼は、1923(大正12)年に雑誌婦人記者・波多野秋子と情死してしまったのである。有島が45歳の時のことである。大正デモクラシーが華やかであった中で生じたスキャンダルは、編集者が人妻であったこともあり、大正社会に大きな衝撃をあたえた。
 さて、こうしたイメージをもつ有島の実像をつかむには、彼の著わした、長編評論『惜しみなく愛は奪ふ』にとりかかるのが最適だと思える。
 負け犬的な人生を繰り返した有島であるが、その内心は、生きることに希望と明るさを求めていたに違いなく、その欲求がこの小品にはあふれているではないか。「(本評論は)私にある深い自信と愛着とを持たせずにはおきません」というように、己の人生や思想を大いに語っているのである。
 有島は、常に自分を宣言・告白せずにはいられない人であった。それは彼の誠実で正直な人柄がそうさせたのかもしれない。例えば、「宣言」という様な表現の評論文をいくつも発表している。その例をあげれば、「宣言一つ」「『リビングストン伝』序」「農場開放てんまつ」などである。彼はそうすることで自分の全てをさらけだし、その過程を経ることで、自己の位置を確認し、安心の境地を探し求めていたともいえる。しかしそれは、あまりにあてどのない迷走の道のように思える。
 本評論も例外ではない。これまでの人生を辿った思想的軌跡の最終的考察が本評論だという。そのために5年以上の思索を積み重ねた「思想の絶頂」であると自賛している。
 評論『惜しみなく愛は奪ふ』は1920(大正7)年に公表された。評論が語る、多元から二元、二元から一元への思想的地平は、それより10年前の雑誌「白樺」に発表された「二つの道」以来、一貫して変わらない思考形式であった。彼の言う二元とは、神的なものと悪魔的なものとの相克である。別な言葉で言い換えれば、「聖書」と「性欲」とのせめぎあいであり、この魂と肉の相克は、彼にとって生きる上での深刻な課題となったのである。
 評論「二つの道」では冒頭を「二つの道がある。一つは赤く、一つは青い」と飾っている。「二つの道は二つの道であり人が思考する瞬間、行為する瞬間に、立ち現れた明確な現象で、人力をもってしてはとうてい無視することのできない、残酷な実存である」と飾っている。このように、二元対立・二つの道の煩悶はそのまま残り、彼の人生は矛盾葛藤の中で燃焼し尽されたのである。
 評論『惜しみなく愛は奪ふ』は、「人間生活の諸相には三つの側面がある」と切り出す。単なる過去の反復をくりかえす「習性的生活」、次に、反省と努力の強いられる「智的生活」、最後が、個性を中心に自己必然の衝動から、自分なりの生活を拡張する「本能的生活」の三段階だとした。
 結論を先にすると、三番目の「本能的生活」こそが彼が長く希求してきた生き方なのである。彼は主張する、本能の生活には「もう自他の区別はない。二元的対立はない。これこそは本当の生命の赤裸々な表現ではないか」と。すなわち、この愛の機能を、「人間に現われた純粋な本能の働き」ととらえ、人間の個性はこの愛の拡充で成就するとした。しかしながら、この論旨が一般的な愛の属性とは全く異質のものであることを見抜かなければならない。
 愛がもつ属性の中で最大のものは、何らの見返りも要求しない無償の行為ということに尽きる。ところが有島は、それは与えるばかりの行為ではないと断言し、それとは正反対の、徹頭徹尾自己のための「惜しみなく奪うもの」が愛だと宣言したのである。
 「見よ愛は放射するエネルギーでもなければ与える本能でもない。愛は掠奪する烈しい力だ」「見よ愛がいかに奪うかを。愛は個性の飽満と自由とを成就することにのみ全力を尽くしているのだ」「愛はかって義務を知らない。犠牲を知らない。献身を知らない。奪われるもの奪うことを赦しつつあろうともあるまいとも、それらに煩わされることなく愛は奪う」「私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することにおいて己を愛しているのだ。そして己をのみだ」
 不幸にも彼が希求している現実的な解決には程遠く、強烈なエゴとナルシシズムと、狭量な論理に縛られている有島の孤立している相貌が見てとれるだろう。
 矛盾をかかえたままの生を、本来の人間のもつ態様と独り決めした上に、最終的に逢着した観念が「本能的生活」であった。つまりその意味は、延長線の先をいくらたどっても、自我の真の解放には決して至らないということである。独りよがりの観念が迷走し、己自身をがんじがらめに呪縛することは自明である。
 有島は21歳の時にキリスト教に出会い、内村鑑三に師事するようになった。キリスト教に接近した根底には、二元対立を止揚した立場でのキリスト教という一元希求が潜在意識にあったろう。
 その辺の事情は著作「『リビングストン伝』序」にあり、北海道の自炊生活で「宗教的有頂天」ともいえる体験をし、「清教徒のような清い生活をし、聖書を食とし、祈祷を糧」とすることが日課になったという。
 ところが、禁欲的体験を重ねるうちに次第に「怠惰」と「性欲」の誘惑の思いが彼を苦しめることになった。
 彼が信仰生活で感じ得たものは、ただ偽善者としての自己、「弱くもなりきれず、強くもなりきれない本当の弱者」の姿であった。『惜しみなく愛は奪う』にも、「神の信仰とは強者のみが与うる貴族の団欒だ。私はうらやましくそれを眺めてやる。しかし私にはその入場券は与えられていない。私は単にその外にいて貴族の物真似をしていたにすぎないのだ」と嘆息している。彼の言葉を信ずれば、確かに彼流に己の罪の問題、心の奥底から誘発される誘惑と戦ったのであろう。
 しかし惜しむらくは、彼の内面の葛藤を癒す手段はいつまでも見いだせなかった。後年、25歳になって有島はアメリカ留学へ出発するが、遭遇したアメリカのキリスト教から受けた失望は決定的で、棄教してしまう。そうした彼の心境の激変は無教会の恩師・内村を大いに悲しませることになった。
 やがて混沌とした生の中で、社会主義思想に接近する。クロポトキンのアナーキズム思想の感化もあって北海道の広大な有島農場を手放すことにもなる。
 欧米から帰国後、結婚し3人の子供に恵まれるものの、家庭生活は7年間で途絶える。27歳の若さで妻が病死してしまったのだ。おそらくは、この不幸のため混乱する彼の心は、人生に希望はあるのか、あるいは絶望しかないのか、といったより深刻な想念にかられたのであろう。そもそも、心の支えを失うという現実をうけいれるには大変な困難がともなったろう。
 母親を失った幼い3人の子供たちにむけたとされる短文「小さき者へ」には、幼な子たちの前に確実に迫っている厳しい人生の現実に、勇気と希望をもって生き行くことを切々と説く父親の痛ましい姿がある。
 「私は私らしく神を求めた。どれほど完全な罪人の形において私はそれをなしたろう。おそらく私は誰の眼からも立派な罪びとのように見えたに違いない。私は断食もした。不眠にも陥った。やせもした。……ある時は神を見いださんためには、自分の生命を好んで絶つのをも意としなかった」
 他方には、自身は偽善者なのだと赤裸々に言い募る姿が屹立している。「神を知ったと思っていた私は、神を知ったと思っていたことを知った」「ただ罪人は叫ぶ。それを神が聞く。偽善者は叫ぼうとする程に強さを持合わしていない。故に神は聞かない」と。
 今の自分を偽善者と主張し、ことさらに自身を追い詰めている感さえ覚える。こうして理想的な自分を対極に据え、偽善と理想のその二極を逡巡しながら最後まで揺れ動いた人なのである。
 このように考察すると、有島武郎は白樺派に属し作家活動をしたわけだが、本流の流れとは異なる部外者的存在であったことがわかる。白樺派の主潮とは、武者小路実篤のように自我や生命を何よりも大切にし、人類愛と人道主義を標榜しつつ創作活動に励む作家たちのことだからである。
 有島は、あまりにも暗く憂鬱な自我に捕捉され人生の破綻を招いてしまった。結局、「長い回り道」の末、神のいない自己へ帰っていった。神から失墜した彼からは、自己破壊と死の匂いが漂ってくるばかりである。神と替わって空白の心を満たしたものは、本能的生活としての自己愛、奪うばかりの利己的愛であったのである。
 読後から言えることがある。『惜しみなく愛は奪ふ』の先頭の一節、「太初
(はじめ)に道(ことば)があったか行(おこない)があったか、私はそれを知らない」は、神を拒絶して、反キリスト的な位相にあることを表明した有島らしい宣言文である。
 後半になると次のような重苦しい言葉がはかれている。「もし私が愛するものをすべて奪い取り、愛せれるものが私をすべて奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。……だからその場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ」「愛が完うせられた時に死ぬ、即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破る、それを定命の死といわないで何処に正しい定命の死があろう」
 暗い虚構の論理を身にまとい、死という破滅へと走り進む予兆の言葉である。「だからその場合彼女が死ぬことは私が死ぬことだ。殉死とか情死とかはかくの如くして極めて自然でありうることだ」と。
 この文言から有島が決行した情死を顧みると、熾烈な二元対立の末、虚構の論理に漂着し、自己を破壊する自壊の道、盲目的な愛の道へ直進したことがわかる。
 『惜しみなく愛は奪ふ』は、せんじ詰めれば、「私は……」というフレーズのめだつ、過去から現在までの彼自身を主人公にした告白文といえるのである。「偽善者なる私にも少しばかりの誠実はあった」との述懐を思い起こす。
 それにしても、有島武郎の死が「一人の平凡な偽善者のわずかばかりの誠実が叫び出した訴えにすぎない」とするならば、それはあまりにも不条理と悲しみに満ちた誠実さではあった。
(2019年12月10日付758号)