栄西(4)/初の本格禅寺・聖福寺を建立

岡山宗教散歩(11)
郷土史研究家 山田良三

 博多の聖福寺は栄西が国家鎮護の禅寺院として朝廷の勅許のもと七堂伽藍で建立された最初の寺です。これには東大寺勧進として、朝廷や公家、さらに鎌倉将軍の源頼朝から深く信頼されていた重源が重要な働きをしたことと思われます。東大寺供養会の3カ月後、頼朝のもとに栄西から聖福寺建立の言上書が届けられました。頼朝はそれを許可し、朝廷からは靫負尉(ゆげいのじょう)をくださる綸旨が出されました。頼朝から博多の広大な土地が下賜され、建設が進められました。棟梁には宋から栄西に付いてきた工匠が任命され、10年の歳月を費やし、元久元年(1204)に完成しました。
 工事が始まって間もなく栄西を訪ねて来て、後に泉涌寺の開基となったのが、月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)でした。俊芿は「戒・
定・慧の三学の中で最も基礎となるのは戒である」として厳しい修行に取り組んでいました。俊芿に感銘した栄西は、彼に将来を託しました。その後、渡宋した俊芿は、15年後の建暦元年(1211)に帰朝し、洛東の仙遊寺の住持になり、衰退した寺の再興を後鳥羽上皇に願い出たところ、上皇から純絹一万疋を賜ったので、名を泉涌寺と改め、台・密・禅・律の四宗兼学の道場としました。その後、泉涌寺は皇室の菩提寺となり、「御寺(みてら)」と呼ばれる名刹となりました。
 このころ、栄西は重要な著作も行っています。『出家大綱』が書き上げられたのは、聖福寺建立の勅許がおりた建久6年(1195)、代表作の『興禅護国論』の成立は建久9年、草稿は九条兼実の指示で役所に詰問された建久6年前後と言われています。全10章の『興禅護国論』は第1章「令法久住門」で、仏法を永遠ならしめるものが禅であるとし、第2章「鎮護国家門」で、仏法は国家を鎮護する教えで国王は仏法を保持すべしとしています。
 そのころ、土御門通親の策動で九条兼実が失脚し、栄西は都における外護を失いました。そこで栄西は正治元年(1199)鎌倉に入り、二代将軍頼家に拝謁します。当時18歳の将軍頼家は栄西の風格に敬服し、尼御台所の政子の信頼も得た栄西は、南都から届いた不動尊の開眼供養の導師役を勤めるなど、将軍家から取り立てられ、将軍頼朝の一周忌法要も栄西の導師で営まれるなど、頼家と政子の信任はさらに深まって行きました。正治2年閏、政子は栄西を開基に寿福寺の建立を決め、土地を寄進、極めて短時日で完成させました。栄西は、寿福寺では禅を本願とし、それ以外の寺では密教の加持祈祷を主にしていました。頼朝が奥州征伐で滅ぼした藤原氏の怨霊を鎮めるため建立した永福寺の、多宝塔供養の導師を勤めたのも栄西です。
 建仁2年(1202)栄西に京都進出の機会が訪れました。将軍頼家から洛東の五条以北、鴨河原以東の地が寄進され、禅苑の造営を頼まれたのです。朝廷より宣旨が下り、真言・止観・禅門の三宗併置の道場として建仁寺が開山しました。この頃になっても既存の仏教勢力からの圧力はありましたが、栄西はひるまずに禅の普及に努めました。当時の栄西には、訪ねてきた貧しい人に檀家が奉じた絹を与えたり、飢えた貧乏人に仏像の光背用の銅を授けたりなどの逸話が残っています。
 栄西と重源は第一次入宋の時に出会って以来、親交を温め、重源が東大寺再建に本格的に取り組むようになった時期に、栄西は2度目の入宋を果たします。帰国後、九州を拠点に禅の普及に努める栄西を重源は助けました。20歳年上の重源を栄西は仏徒の先輩として尊敬し、重源は栄西の仏法への真摯な姿に共鳴していました。重源は法然とも親しく、東大寺勧進職は最初法然が候補とされましたが、法然の推薦で重源が任命されました。
 重源は大仏と大仏殿を再建し、その他の堂宇の再建を進めていた建永元年(1206)86歳で入寂、その後を継ぎ、東大寺勧進職に任命されたのが栄西です。栄西が勧進職になってから建立された代表的な建築が東大寺鐘楼で、そのすぐ隣にあるのが、国宝・重源上人座像を安置する俊乗堂です。2人の出会いがあったからこそ、日本に禅が根付き、その後の仏教の興隆もあったというわけです。
 栄西は茶祖としても知られ、将軍実朝のために書かれたと言われる『喫茶養生記』は、心と体の健康論です。禅と結びついた茶道は、やがて日本を代表する文化として世界に広まっていったのです。