パチンコ打ちとオルガンの弾けない先生

シュヴァイツァーの気づきと実践(4)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫

 8才のころのある日、アルベルトはパチンコで小鳥を打ちに行こうと誘われた。パチンコというのは、2つに分かれた小枝にゴム紐をつけて、小石をとばす道具だ。5メートルから10メートル先の缶やビンや葉っぱをねらって打つのだけれど、いたずらっ子はそれで猫や小鳥をねらって遊んだのだ。
 気乗りしなかったが、仲間はずれにされるのが嫌だったので、友だちの後をつけて裏山に登っていった。春の日差しがのどかだった。しばらく行くと友だちが、「シー」と言って身をかがめ、目の前の木を指さした。そこには数羽の小鳥がさえずっていた。友だちはパチンコに玉を詰め、アルベルトにも「やれ」と合図した。アルベルトも小石を詰め、「当たりませんように」と願いながら、鳴き声の方に構えた。
 そのときだった。教会の鐘が「キーン、コーン」とひびいてきた。それはあたかも「なんじ、殺すなかれ」と言っているようだった。教会でよく聞く言葉だ。われに返ったアルベルト、「ワァー」と大声で叫び、パチンコを放り出して家に飛んで帰った。
 弱いものをいじめてはならないと思いながら、いじめに参加しかけたのだ。他人に何と思われようと、自分の意志で行動するのが本当ではないか……。彼は正しいと思うことをやりぬく決心をした。この信念は生涯にわたって変わらなかった。
 小学2年の音楽の時間のときだった。みんなで讃美歌をうたったのだけれど、伴奏してくれた先生は一本指でメロディーだけをひいていた。これでは歌はきれいにひびかない。授業が終わるとアルベルトは先生のところへ行き、こう言った。
 「先生、和音をつけて伴奏すれば、もっと美しくなりますよ」
 ぽかんとしている先生の見ている前で、彼は楽譜も見ないで、和音をつけて讃美歌をひいた。
 「あら、本当にそうね」
 先生はそう言って、アルベルトの顔と指を見やるのだった。アルベルトは、先生が自分の考えを理解してくれたので、うれしく思った。ところがつぎの授業のときも、先生は相変わらず一本指で伴奏するのだった。
 おかしな先生だな、と思ったそのとき、はっと気づいた。生徒にできても、先生にできないことだってあるのだ。子どもにできても、大人にできないことだってあるではないか。
 「ピアノをひくのは、ぼくには当たり前のこと。でも、先生にはできない。ぼくは先生に恥ずかしい思いをさせてしまったのではないか」
 自分の能力を先生に見せびらかしたことになる。もちろん、そんな気持ちはなかったのだけれど……。彼はそんな自分を恥ずかしく思った。そのときアルベルトは、人にはそれぞれの能力があることを知った。それからというもの、彼は他人の能力や美しさを素直に認め、自分の能力には謙虚になることを心がけるようになった。
(2019年10月10日付 756号)