論文「十二支考」 南方熊楠(1867〜1941)

文学でたどる日本の近現代(2)
在米文芸評論家 伊藤武司

 今日、南方熊楠(みなかたくまぐす)の名は、時代に先駆けてエコロジーの名称を使用した先駆者として日本社会に喧伝されている。神童といわれた幼少時代から抜群の記憶力の持ち主であった。生涯19の言語の読み書きができ、奇行の数々でも知られている。彼の専門は博物学、植物学、とくに地衣・菌類学の研究である。さらに民俗学、風俗紀行にも深い造詣があり、民俗学と自然保護運動に関しては、日本民俗学の泰斗・柳田國男との交流が緊密であった。
 生涯中央社会で活躍することもなく、洋行後は和歌山田辺で在野の一生を終えた。エコロジーに関心を払い、和歌山県熊野の森林を明治政府の伐採計画から体を張って守った運動は、正に彼に負うところが多い。現在この地は世界自然遺産に登録され、彼の面目躍如というところである。
 ところで、青春時代の十数年の洋行は彼の全生涯で大切な意味をもっている。最初の数年はアメリカで過ごした。ところが、せっかく入学したサンフランシスコやミシガンの大学を2年程で退学。その後はフロリダ州で放浪に等しい生活を送った。ただし、放浪だけの生活ではない。学問への意欲は人一倍あって、動植物の研究を独自にしていた。言い換えれば、彼の研究姿勢は教室で講義を受けることに飽き足らず、自分流の方法で独学する性向が強烈であったのである。
 彼が大きなチャンスをつかんだのは、イギリスへ渡ってからである。約8年間、大英博物館の嘱託となり、学術論文を書いたり、仏像や仏典の整理や編纂に加わった。そのかたわら、大英博物館所蔵の膨大な書籍を読破して後の研究の資料を作成した。
 おそらく、そのままの研究と研鑽をイギリスで続けていたら、日本の学者として大なる名声を勝ち得ていたことはほぼ間違いないと言われている。彼の主著には、なんといっても『十二支考』を挙げなければならない。この長編論考は傑作の誉れ高い古典である。しかも同書の特異とするところは、密度の濃い内容であることは無論、通常の学者が試みる学術的体裁を完全に抜け出ている点にある。大変な型破りで、奔放なスタイルを押し通し、そこにまた南方熊楠の不思議な人間的魅力が感じ取れるのである。
 表題は十二支をとりあげている論文である。しかし牛の項目はついに書かれなかった。そうした形式的な規格からすれば未完成作品といえる。その理由はいくつかあるが、彼の蒐集した膨大な資料や原典資料に直接あたる実証性を重視した強い志向がまずあるだろう。たとえば、ある月刊雑誌に載せた10ページばかりの論文に参照・引用した文献・書物の数を挙げてみれば明らかである。日本語の引用75種類、中国語61、英語49、フランス語13、ドイツ語5、ラテン語2、スペイン語2、イタリア語2にわたるといった念の入れ方なのである。
 「十二支考」をひもとくと、読者は1ページ目から驚きを禁じ得ないだろう。日本の古典はもとより、中国・インドなどのアジア諸国やエジプト、ペルシャやヨーロッパの古代史や神話や故事の開陳、多様な文献を駆使した伝説、風俗、紀行、博物などの豊富な知識が凝縮されている。目の回るような壮麗さにどうしても瞠目せずにはいられない。
 それからまだまだ圧倒されることがある。純学門的な論述がされたかと思うと、そこに海外体験談がはいりこみ、講談や歌舞伎、落語の話、俗世間の話、政治談義になったりする。はたまた、聖書や仏教説話や性愛的な挿話の数々が、アリストテレスやシェークスピアやゲーテなどの高尚で上質な哲学や文学と混在しているのである。とにかくこのように、彼の野生児的鬼才・天才的博識ぶりには圧倒されるだろう。実に南方熊楠の驚くべき知力と好奇心と記憶力のすべてが注入された作品である。
 こうして、稀有の大作『十二支考』をひもとくたびに、あたかも生涯天衣無縫に生きた彼自身が大百科事典となって書きまとめたという強烈なイメージが読後感として心に響くのである。
(2019年9月10日付755号掲載)