中間を行くアシュアリー派

カイロで考えたイスラム(13)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 論敵の批判に対するアシュアリーの主張を、井筒俊彦著『イスラム思想史』に沿って要約しよう。
 ①神と天使たちが下した経典と使徒達、神が顕し給うた事、ムハンマドが伝えたハディース、これらすべての存在を固く信じる。
 ②アッラーは唯一の神で無始の過去から存在し、アッラーには妻も子もないことを主張する。ムハンマドは、アッラーの僕であり使徒であることを信じる。
 ③天国と地獄とは現実に存在することを信じる。
 ④最後の審判は間違いなく到来する。その時には、神は墓中に在る者達を全て裁きのために復活させるだろう。
 ⑤アッラーは玉座の上にあると信じる(20章4節)
 ⑥神は顔を持ち、手を持ち、目を持つ、とコーランの多くの章にある。
 ⑦神は知識を持つ(35章12節)。
 ⑧神には力がある(41章14節)。
 ⑨神には、聴覚と視覚もある(ムアタズィラなどはないという)。
 ⑩神の言葉は創造されたものではないと信じる(16章42節)。
 ⑪この世の全ては、善にせよ悪にせよ、全て神の意志なしにあり得ない、すなわちあらゆるものは神の意志によって存在する。
 ⑫人間はあらかじめ神がなし給うのでなければこれをなすことは出来ない。神の外に創造者はなく、全て人間のなすことは神が創造し、予め定め給うたところにすぎない。人間は創造されるのみで、自らは一物も創造出来ない。
 ⑬善も悪も神の定め給う所。我らは善につけ悪につけ、楽しみにつけ苦しみにつけ、全ては神の叡智から起こるものであることを信じる。
 ⑭神は復活の日、信仰ある人々の前に見えるものと信じる(ハディース)。異端者には見えない(83章15節)。
 ⑮信徒は、姦淫、窃盗、飲酒などの罪を犯しただけでは異端者とはならない。但し、アッラーのほかに神の存在を信じる大罪を犯した場合は異端者となる。
 ⑯罪を犯した者の中の多数は、一度業火に焼かれることはあっても、ムハンマドの執り成しにより火中から神に救い出される。
 ⑰我々は罪人が墓中で罰の苦しみを受けること、また死後の甦りと最後の審判の来るべきことを信じる。
 ⑱我らは、信仰とは言葉と行為の両者を含み、従って信仰には増減があることを主張する。
 ⑲我々は、預言者の後継者を認め、4人の指導者が他の人々に優れていることを認める。
 ⑳神は日々、天の最下層に降り立って、「何か願っている人はないか、誰か我に許しを乞うている者はないか」と尋ね給うというハディースの真実性を信じる。
 ㉑我らの間に、異論、論争が起こるときは、必ずコーラン、預言者のスンナ、全イスラム教徒の一致した意見、またはこれに代わるものに依拠して判断し、決して神の許し給わぬ新説を出すことなく、また、神に関して自ら知らぬことを主張してはならない。
 ㉒金曜礼拝を遵守し、礼拝の指導者に絶対的に服従し、これに背くことは迷いだと信じる。
 ㉓我らはイスラム教徒が死亡した場合、正しい信仰の持ち主たると否とを問わず、その冥福を祈る。
 ㉔我らは、この世に魔術妖怪の存在することを認める。
 ㉕天国と地獄とは共に創造されたものであることを信じる。
 ㉖全て死んだ者(殺害されたものを含む)は天寿が尽きて死んだ者と認める。
 ㉗人間の日々の糧は、全て神によって与えられたものとする。
 ㉘我らは、悪魔が人の心に秘かに悪念を囁きかけ、心に疑惑を引き起こすものと信じる。この点は、ムアタズィラやジャフミーヤと対立する。
 ㉙偶像崇拝者は、その子供といえども地獄の火に投げ込まれるだろう。
 ㉚神は、その僕たる人間の現になしつつある事、及びその目的を熟知し、更にすべて起こり得ることはもとより、起こらぬことも、仮に起こる時はどのようになったであろうかということを知り給うものと信じる。
 これでは、ムアタズィラ以前の単純な大衆信仰に逆戻りしたようなものだが、月日が流れると共に、ハンバル派に固執するという彼の主張は次第に崩壊していく。彼は理性人であり、「アシュアリーは中間を行った」と言われるようになっていくのだ。
 例えば、信仰に関してムアタズィラ派やジャフム派は、信仰は絶対的に創造されたとし、ハシュウィーヤ派は、信仰は絶対的に永劫の過去からあったものと主張するが、アシュアリーはそのいずれにもつかず、「信仰には2種類あり、一つは神の信仰(59章23節)、もう一つは人間の信仰で、これは人間から発し、人間に創造され、もしそれが純粋ならば、神から賞を受け、不純なら罰を被る種類の信仰である」とした。コーランに関しても、ムアタズィラ派はコーランの永遠性を否定し、その創造説を採る。これと正反対のハシュウィーヤ派は、コーランのみならず、その一字一句、またコーランを書いた紙、使用した墨まで、無始の過去から存在したと主張した。これに対してアシュアリーは、両者の中間を行き、コーランは神の言葉であって無始の過去から存在し、永遠不変で、被創造物ではないが、その文字や紙、墨などは全て人間の考案と製作に掛かるとした。
 こうしてアシュアリーは次第に新たな理性主義に向かい、「信仰は確実な神の認識に基づくものでなければならない」として、理性による証明の必要性を強調した。ハディースのみに基礎を置く認識は絶対確実な知をもたらさない、とも主張した。
 なお、ムアタズィラがあくまで論理的な推理を進めて、コーランの教えと正反対の結論に達しても何ら意に介さなかったのに反し、アシュアリーは、常に理性の自由をコーランに反しない程度に限っていた。
 故に、アシュアリーのイスラム改新運動が正統派の教義に至ることはなく、ガザーリ―を待って初めて決定的となる。
(2019年3月10日付749号)