第12回「心と命のフォーラム」
「ないがままで生きる」/総本山善通寺
「生きる作法・死ぬ作法」と題し毎秋、香川県善通寺市の総本山善通寺(菅智潤管長、法主)で開催している「心と命のフォーラム」の第十二回が十月十日、菅智潤管長、解剖学者の養老孟司氏、僧侶で芥川賞作家の玄侑宗久師、浄土真宗本願寺派称讃寺住職の瑞田信弘師のメンバーで開催された。今回のテーマは、玄侑師の著書の題でもある「ないがままで生きる」。約三百人の聴衆が耳を傾けながら、それぞれの生き方について考えていた。
福島県三春町から来た玄侑師は「今年一月に出した小説『竹林精舎』は、原発事故のあった複雑な場所で、若い僧が無住の寺に入り、好きな女性と結ばれる物語。震災後、被災地のニュースは暗いものが多かったが、不安だと人は引かれ合い、二〇一二年には婚姻数がV字回復し、一三年に福島県は出生率が日本一になったので、そんな様子を書いた。次の小説は葬儀屋の話で、伝統的な葬儀の復活を目指す若者が主人公だ」と発言した。養老氏は「現役時代は解剖が多く、葬儀屋と親しくしていた。私の家は鎌倉の寺の地所で、生まれたのも同じ。門前の小僧で仏教のことも分かるようになった」と語った。
瑞田氏は「福島の原発事故では、玄侑師がお坊さんなりの切り口でいろいろ発言しているのに感心した。『ないがままで生きる』は私が付けたが、そのとおり打ち合わせのないままフォーラムに臨んでいる。計画を立て、それに従って進めるのが常識だが、むしろ自由な展開での発言に期待したい」と話した。
著書『ないがままに』について玄侑師は「『あるがままでいい』と言われても、どのあたりがそうなのかよく分からない。そこで『ないがまま』を考えた。昨日のことは昨日で終わりにし、今日は一から出直すということ。最近、終活のように、計画を立てるのが珍重される。墓じまいや直葬、家族葬など、新しい言葉が生まれると、事態がさらに拡大する。家族葬は宮崎県の葬儀屋が商標登録している。それが過剰になると身動きがとりにくいので、ないがままを考えた」と説明した。
養老氏が「今は頭で考えることがよしとされるが、東大でその弊害を実感した。東大病院である朝、カルテの入った金庫を開けようとしたが開かない。夕方になって、東大医学部卒のインターンの医師が、先輩にいじめられたため、扉の内側に瞬間接着剤を塗ったことが分かった。学校の成績と人間性とは関係ない。結婚も理屈ではなく、何も考えないからする。結婚しない若者が増えたのは、理屈で考えているからだ。今、家族葬と直葬が六割で、普通の葬式は四割になっている。そこで葬儀のあり方を研究している曹洞宗の若い僧たちに呼ばれ、仏(遺体)の役をしたことがあり、戒名をもらった。私は玄侑師から二つ目の戒名を頂いたので、一つは愛猫のまるにやろうかと思っている」と言うと、玄侑師は「猫向けの戒名ではないので」とコメントし会場は大爆笑。
『竹林精舎』で戒名を付ける場面を初めて書いた玄侑師は「故人の人生を反映し、祈りを込めながら付けている。生前に戒名を求める人が年に数人いるので、将来をそれほど悲観していない。昔、僧の多くが学校の先生か地方公務員、農協職員との兼業だったが、葬式で休むのに寛容でなくなり、三つとも難しくなった。職場を含め社会全体がやさしさを失いつつある。早さや効率ばかり求め、人が短気になっているので、寺は少し違う価値観を提供する場所でありたい。賽銭は平均四十円で、お布施にはギャンブル性がある。ものに値段がないイスラム社会には、余裕のある人が高く買えばそのお金が貧しい人に回り、彼らが助かるという考えがある。普段の買い物もお布施で、値切るのを自慢する社会ではない。福祉に回ると信じているのでお金を出せる。資本主義や民主主義の限界が感じられる今、面白い。お経に値段はなく、買う側が決める。原稿料や講演料も似ていて、お布施で動いている世界は結構ある。それが広がると、資本主義に一石を投じられるのではないか。アマゾンが法事まで請け負い、価格化するのには反対だ。アマゾンの要求を受ける僧侶に仕事がどんどん行くようになるから。葬儀屋の言うがままに動くフリーの僧侶が増えるとおかしくなる」と話した。
瑞田師は「二千五百年前に釈迦は人生は苦だと悟り、その原因は煩悩にあるとした。便利さが増すにつれ煩悩は拡大している。熱中症の危険があると、メディアはためらいなくエアコンを使うよう勧める。すると室外機から熱気が外に出て周りを温め、地球全体では逆効果になるのではないか。煩悩が過剰になると、地域社会や地球を壊すことになるので、ないがままを見直したい。葬儀の規模が小さくなるのは構わないが、僧侶として死の意味が軽くなるのは心配だ。煩悩があるから人は努力するのだが、もっと自分を高めることに関心をもってほしい。我執が過ぎると、気の合う人とは付き合うが、親戚でも気が合わないと付き合わなくなり、地域社会が崩壊する」とコメント。
養老氏は「葬式が簡略化しているのは世界的傾向で、原因は死の意味より家族の関係が弱くなっていることにある。親しい人が亡くなると自分が変わる。典型的なのは子に死なれた親で、そのことを真剣に考えないから、残された人が困らないようにと終活がはやる。もっと人のことを深く考えると、自分の死後のことを指図することはなくなる。人生一直線で効率優先なら、早く死ねばいい。しかし、面白さは寄り道にあるので、人生をどう考えるかが問題だ。都市化すると生老病死が隠される。東京では子供は100%病院で生まれるので、お産が病気になっている。東京では92%の人が病院で亡くなるので、都民の大半は仮退院中の病人という異常な事態になっている。私が小学生のとき、クラスにダウン症の子がいるのも普通だった。そんな子の面倒を見るのは、勉強のできない子で、人間社会はよくできていると思った。精神病院でも、重症の患者を比較的軽症の患者が世話している姿を見かけるので、人間に対して楽観主義になる。今の一番の問題は兄弟がいないか少ないこと。兄弟の様子を見ながら、育つことの予習復習ができないからだ。今は同級生を見るだけで、それも背中を向けている。これは大人が注意しないといけない。気に入らないのは待機児童という呼び方で、子供にとってはお母さんといるのが一番楽しいので待機しているのがいい。そんな当たり前のことが軽んじられている。親子の関係を軽くすると、いい加減な人間に育ってしまう。大人が本気で構うと子供は必ず応じてくるので、もっと真剣に子育てを考えないといけない」と語った。
玄侑師は「子供は大人とは命のあり方が違う。坐禅や瞑想をしたり、念仏や真言を唱えたりすると、脳波がベータ波からアルファ波になり小学生の状態に返っている。それが心身ともにリラックスした状態だからだろう。子供は直観力が優れていて、それが弱るのを、大人は知識や計算で補っている。宗教的な行は、結果的に子供の直観力を取り戻すことになる。だから、子供を早く大人にするのは非常におかしい。子供の聖域を守れるお寺でありたい」と応じた。
真言宗の修行について菅管長は「高野山の一年間の専修学院では九月から百日間の四度加行(しどけぎょう)に入り、三時間ほどしか眠れず、最後の一週間の護摩修行になるとほとんど眠らないで護摩を焚き、お経を唱える。小学生は七月後半に二泊三日で研修会があり、約五百人参加する。五時半起床で般若心経を唱えるので完全に覚える。高校生は指導員として後輩の指導に当たるのが三十六年続いている。京都にある小中高の洛南学園では宗教教育を行い、小学六年生は善通寺で一泊研修をする。四国霊場は巡礼者が減少しており、対策としてトイレの洋式化などに取り組んでいる」と語った。
巡礼について玄侑師が「らせん状に回ることでステップアップするという考えが日本人にはある。七福神を考えたのは京都だが、それが江戸に伝わり、七福神めぐりが始まった」と述べ、「最近、瞑想がはやっているが、真言宗の阿字観は優れた瞑想法なので、もっと世間に知らせてほしい」と言うと、菅管長は「阿字観は梵語の第一字母である『阿』の字を見ながら行う瞑想法で、世界と自分がひとつであると実感することを目指す。その前に、数息観という密教坐禅で、呼吸だけに専念し、雑念を払う。阿字観のテキストが十月には出来上がり、釈迦堂で修行できるよう準備している」と答えた。
養老氏は「今は言葉が氾濫しているが、それより行動を重視したい。小学生時代から虫を取ってきたので、数年前に建長寺に虫塚を作り、六月四日の虫の日に虫供養をしている。設計したのは高校の後輩の隈研吾で、ジャングルジムのような形をしている。車や電車は走るたびに相当数の昆虫を殺している。日本は単位面積当たり農薬使用量が世界一で、韓国が二位、自閉症の発生率も日本が世界一で、韓国が二位、やはり農薬の影響ではないか」と警告した。
玄侑師は「殺生しないで人が生きることはできない。中国でお盆が生まれたのは、期間限定の博愛なら可能だからだろう。将来は人工知能と共存する社会になるが、コンビニの店員が同じような言葉を発するのは、既に人工知能の真似をしている。人は人工知能にはできないことをすべきで、その典型が坐禅と念仏。そこに人間の可能性があるように思う」と述べた。話を聞きながら参加者は思いを深めていた。