イスラム法の4つの法源

カイロで考えたイスラム(9)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 イスラム教は正統カリフ時代からウマイヤ朝を経て、アッバース朝に到る。渥美堅持氏は著書『イスラム基礎講座』で、この六百二十六年間に、預言者ムハンマドが受けた啓示の書であるコーランを中心に信仰した素朴な時代から、ペルシャ文明やビザンチン文明などとの接触により、イスラム教の解釈をめぐって分裂も含む多様な見解が出てくるようになった、と指摘している。
 預言者ムハンマドの死後、教徒たちは預言者の生前の言行を集め、法解釈するようになった。この言行録が「ハディース」で、コーランに次ぐ第二の法源とした。
 しかし、支配が異民族にも拡大すると、イスラム教が裁く問題はコーランとハディースだけでは対応できなくなる。そこで、数人の法学者が協議し結論を出すことが制度化され、その結論が判例となり、「イジュマー」と称する第三の法源となった。
 しかしこの制度は、複数の法学者がいないと成立しないので、地方や辺境では非現実的だった。そこで、法学者一人でも、法学者がいない場合はイスラム教に詳しい者(商人、学者、詩人など)による類推解釈が行われるようになる。彼らは過去の事例から推測して判決を下し、「キャース(類推)」と呼ばれた。
 青柳かおる氏はキャースを三段論法だという。例えば、コーランではワインの禁止が明記されているが、他の酒はどうなのかという問題には、ワインが禁止なのは酩酊作用があるからだとの理由から、他の酒も全て禁止と類推する。
 以上の四種類を法源に法源論を確立したのが法学者シャーフィイー(七六七〜八二〇)で、これ以降、イスラム法は原則として四つの法源から導き出されることになる。アッバース朝時代の八世紀半ばから九世紀半ばにかけてウラマー(イスラム法学者)層が形成され、法学者を学祖とする法学派が形成された。
 第一のハナフィー学派は、イラクのクーファを中心に存在した学派を継承したアブー・ハニーファ(六九九〜七六七)が祖。地域的慣行や法学者の個人的見解に基づく判断を重視するのが特徴で、コーランとキャースを重視し、ハディースを尊重しなかった。ペルシャ系の学者で、実践的ではなく思索的理論的で、現実問題には柔軟に対処し、最も寛容で、近代的な学派とみなされている。
 アッバース朝初期にアッバース家に公認され、オスマン帝国の公認学派でもあったことから、トルコやインド、中央アジアに広がり、イスラム教徒の約30%が属している。比較的女性の権利を尊重し、成年女性が、自身の意思によって婚姻契約を結ぶ権利を認め、他者が女性の意思に反して彼女を結婚させることを認めない。
 ハナフィー派は、刑罰・制裁の適用でも寛容で、例えばイスラム法(シャリア)では、窃盗犯は両手両足を切断するが、両手は切断するが両足は切断せず、再犯歴が三回以上の累犯犯罪者には、手足は切断せず投獄のみで、また、イスラム教からの背教は死刑だが、女性の場合には投獄のみとする。
 第二は、メディナの法学者の家に生まれ、同地で裁判官として生涯を終えた、マーリキ・イブン・アナス(七〇九〜七九五)を祖とする学派で、メッカとメディナを含むヒジャーズ地方の法学派から生まれた。二番目に大きく、イスラム教徒の約25%が属している。
 マーリキ学派が他の学派と著しく異なる点は、個人的意見を認めず、ハディースを最も重視し、地域的な慣行やコーランの典拠を重視すること。スンナ(慣行)には、ハディースに収録されているものだけでなく、正統カリフの四人、特にウマルの制定した法、イジュマー(ウラマーたちの総意)、キャース(類推)、ウルフ(地方の風習)も含ませている。さらに、聖地マディーナ(メディナ)の改革思想サラフの「生きたスンナ」によってこそ、伝承されたハディースが実証されるとする。伝統的で実践的な派ともされ、現在はエジプトのアズハル大学を最大の拠点としてエジプト、アルジェリアなどの北アフリカ諸国や、サハラ以南のアフリカ、アンダルス(イベリア半島)などにも広まっている。
 第三は、パレスチナのガザに生まれた、マーリキの弟子ムハンマド・イブン・イドリース・アッシャーフィイー(七六七〜八二〇)を祖とする学派で、メディナの慣行を重視するマーリキ学派とイラクの論理的なハナフィー学派を総合したとされる。
 シャーフィイー学派は個人の意見を排し、スンナ(慣行)はムハンマドのハディースから得られる慣行に限るとした。彼においてイジュマーとは、広くある一時代の学者全部の一致した意見である。彼は三段論法に基づき、論理的に不明確であったキャースの概念を明確化、イスラム法の解釈学を完成させた。
 ハナフィー学派やマーリキ学派に比べ啓示的法源を重視し、地域の慣習に依拠する割合が低い。セルジュク朝の庇護を受けたため、一時はイラン高原全域からイラク、アナトリア、シリア、エジプトまで拡大し、アラビア半島南部でも広まった。特にニザーミーヤ学院では、アシュアリー派神学と、シャーフィイー法学派が必須教科であったことから、十一世紀以降、イマーム・アル=ハラマインやガザーリーなどの高名な思想家や法学者、ウラマー、知識人を多数輩出した。しかし、十五世紀になると、ハナフィー派を採用したオスマン帝国やシーア派の十二イマーム派を奉じたサファビー朝が台頭し、中東地域での勢力は後退する。現在は東南アジアやアフリカ大陸東部、中央アジアに広まっている。
 第四は、イラクのバグダッド生まれのイブン・ハンバル(七八〇〜八五五)を祖とする学派で、個人的見解に依拠するハナフィー学派を批判し、コーランとハディースのみを法源にすべきだと主張した。ハンバル法学は非常に厳格・保守的で、特に教義や儀式に関する問題を扱う。二つの法源以外を認めないことから、アッバース朝第七・第八カリフ当時、投獄され獄死した。
 この派は、預言者時代のイスラム教世界を理想とし、回帰運動の源流と言われている。十一世紀から、シリア、パレスチナを中心に最盛期を迎えたが、以降、勢力は衰退し、十八世紀にアラビア半島に興ったワッハーブ派に受容され、サウジアラビアの法学派になった。ワッハーブ派とは、ハンバル派の学者イブン・タイミーヤ(一二六三〜一三二八)の影響を受けたアラビア半島のアル・ワッハーブ(一七〇三〜一七九一)の思想で、サウド家が軍事的に支援し、メッカやメディナでも主な法学派となった。渥美氏は、ワッハーブ派は預言者時代を彷彿させ、「純正アラビアのイスラム教」といえると指摘している。
 同志社大学神学部出身の佐藤優氏によると、イスラム過激派の95%以上はハンバル学派の出身で、同派は、世の中が一番正しかったのはムハンマド預言者が生きていた六世紀頃だと主張しているという。
(2018年10月10日付744号)