清水寺で第103回「うらぼん法話」
森貫主「空即」を語る
京都市東山区の音羽山清水寺で八月一日から五日まで、恒例の「うらぼん法話」があり、五日朝六時から森清範(せいはん)貫主が「空即」と題し最終法話をした。同寺はもと法相宗に属したが、昭和四十年に北法相宗大本山として独立。古くから庶民の観音信仰を集め、今年で草創千三百年を迎えた西国三十三所観音霊場の第十六番札所でもある。
京都の夏の風物詩でもある「うらぼん法話」は、清水寺中興開山とされる大西良慶貫主が大正四年に始め、今年で百三回目。大正三年に興福寺管長だった良慶和上は、明治の廃仏毀釈で衰亡した清水寺住職を兼ねると、寺の復興と観音信仰の布教のため大衆向けの法話を始めた。以後、戦時中も中断されず、昭和五十八年に百七歳で他界する前年まで六十七年間、語り続けた。
森貫主はユーモアを交えながら次のように語った。
「三十三所巡りを始めたのは大和国の長谷寺の開基・徳道上人で、親孝行の上人は早く亡くなった両親の供養のため僧になった。中山寺の縁起である『中山寺来由記』によると、徳道上人が亡くなるとき、夢に閻魔大王が出てきた。閻魔大王は徳道上人がここに来るのはまだ早いから帰れと言い、理由を聞くと、観音のご縁に会わないため仏に会えず、地獄に落ちる人が多いから、観音のご縁に会うよう人々を導くように、とのこと。そして、宝印を頂いて帰った徳道上人は観音霊場を定め、巡拝するようにした。
清水寺では今年二回、三月と十月五日から十五日まで、随求堂にある随求菩薩を御開帳する。願いをすべて聞いてくださるのが随求菩薩で、最後の御開帳が二百二十二年前。随求菩薩の像は清水寺と高台寺にしかなく、ほかには絵と石垣の線彫りがあるだけ。随求陀羅尼を読むのが習慣で、仏像を拝む習慣がなかったらしい。高台寺はお霊屋の本尊で、寧々の持仏で十センチほど。清水寺のは二メートルある。これを秀吉が厚く信仰したことから、寧々にその持仏を持たせたのである。
随求菩薩は胎蔵界曼荼羅の中にも描かれており、インド由来の菩薩で、観音の分身。観音のお経が般若心経や法華経の観音経で、弘法大師は『観音経秘鍵』を書いている。弘法大師は十年から二十年、唐で学ぶ留学僧だったが、わずか二年で帰国した。九州から持ち帰った文物の目録を嵯峨天皇に送ると、天皇は京に入ることを許した。
当時、京に悪病が蔓延しており、弘法大師は天皇に般若心経の写経を勧め、大師は祈祷し、悪病は退散された。大師は『般若心経秘鍵』も著したので、高野山では弘法大師を秘鍵大師とも呼んでいる。般若心経は人間の知恵をまとめた般若経六百巻を二百六十七文字に要約したものである。
般若心経の眼目は『色即是空、空即是色』である。色は一切の存在で、空は常に変化するという意味で無常と同じ。色のサンスクリット語『ルーパー』には物事は壊れていくという意味がある。人生であてにしているものもすべて流れていくので、あてにならない。『空とはあてにならないこと』と言う先輩がいた。すると虚無主義になるが、釈迦は『空は色だ』とした。今あるものが私を支えてくれている、と。最もあてにならないものが自分だが、その自分を当てにして今を大切に生きる。
去年の漢字一字は北で、手のひらを背中合わせにした形で、月を付けると背、背くになる。そうではなく、互いに心を通い合わせないといけない。それを孔子は仁だとした。夫婦も互いにあなたがいるから元気でいられると感謝し合おう。それを北という字が教えている。あてにならないもので成り立っているのがこの世だが、それに感謝しながら生きていき、最後に『おおきに』と言ってあの世に行こう」
法話後、参加者には恒例のパンと牛乳に、森貫主の新著『四季のこころ』(KADOKAWA)がプレゼントされた。
(2018年8月5・20日付742号)