体制保証の主役は国民

2018年6月20日 739号

 歴史的な米朝首脳会談で、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が米国に求めた第一が体制保証であることに、ふと違和感を感じた。体制の保証をなぜ外国に求めるのか、求めるべきは北朝鮮の国民なのではないか、そうしないのは国民国家となりえていないからか、と。
 比較するのは適切でないかもしれないが、先の大戦を終結させるに際し、日本政府が懸念した第一は国体の護持である。ポツダム宣言では、それに対する明確な回答はなかったが、日本政府は第一二条の「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める」に含意されているものと解釈してポツダム宣言を受諾した。
明治の国づくりと天皇
 昭和二十年九月二十七日に連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥を初めて訪問された昭和天皇は、「敗戦に至った戦争のいろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命するところであるから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたに委ねるから、どうか国民が生活に困らぬよう連合国の援助をお願いしたい」と語られたという。
 会見の時間はわずか三十七分であったが、付き添っていた筧素彦行幸主務官は、「先刻までは傲然とふん反りかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のように敬虔な態度で、陛下のやや斜めうしろの位置で現れた」ことに驚いている。
 「日本神話の心」伝承の会会長を務め、『昭和天皇』(産経新聞ニュースサービス)を著した作家の出雲井晶さんは、昭和天皇のお人柄を「無私の方」と話していた。ご自身をむなしくされ、民に心を寄せるのが歴代天皇に共通した品性である。
 百五十年前の明治維新に続く明治の国づくりで、一番の核心となったのは天皇の在り方である。近代国家の枠組みは欧米列強の法治制度にならえばいいであろうが、肝心の国民の形成は、日本の伝統文化や国民感情に即したものでなければならない。
 そこで、国民の天皇に対する崇敬の念を中心に、イギリスなどの例から立憲君主制にしたのであるが、従来のように皇居の中だけに住まわれるのではなく、国民の前に姿を見せられるように皇室の在り方を改編したのである。明治天皇の軍服姿と昭憲皇太后の洋装を見た国民は、新しい国になったことを実感したであろう。
 明治日本のグランドデザインは開国・富国・強兵であり、それは欧米列強の脅威をオランダ情報などでよく理解していた幕末の幕府官僚が作ったものである。維新の志士たちのオリジナルではない。当時の日本の在り方を、ご自身の姿をもって示されたのが明治天皇であり、その意味で国民の象徴としての歩みは既に明治から始まっていたと言えよう。
 しかし、欧米列強に対抗するには日本だけではおぼつかないため、西郷隆盛らが構想したのは中国、朝鮮との連携である。そのためには、東アジア三国が近代国民国家として確立し、対等な国際関係を結べるようにならなけばならない。西郷のいわゆる征韓論も、その文脈で理解すべきである。
 ところが、大陸国家中国と島嶼国家日本の中間にある半島国家の朝鮮は、古代から中国の冊封国家であった歴史を抜け出せず、国内問題の解決に外国の力を利用する傾向が強かった。東アジアの近代史が不安定に終始した一つの原因は、朝鮮半島に近代国民国家が形成されなかったことにあると言えよう。体制の保証を米国に求める北朝鮮の姿勢にも、そうした歴史を感じてしまう。
東アジアの未来のために
 島国であるから東アジアで最も開かれた国となった日本の役割は、経済的利益を第一に当地に臨む米国との橋渡しであろう。幕末にペリーが日本に開国を求めてきた理由の第一も、巨大市場に通じる太平洋航路の開設であった。その希望も満たしながら、民主国家としての充実を図るよう、東アジア諸国に対していく必要がある。
 日清戦争は朝鮮の統治をめぐって起こり、その結果手にした領土をめぐって起きたのが日露戦争である。朝鮮半島が日本の安全保障の鬼門のような状況は明治も今も同じで、地政学的課題とも言えよう。拉致問題解決を念頭に日朝首脳会談の実現を目指す安倍総理には、歴史的な構想をもって事に臨んでもらいたい。

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