米づくりと日本人

2018年4月20日付 735号

 天皇陛下は四月十一日、皇居内の生物学研究所のそばにある苗代で、手ずからもみをまく「お手まき」をされた。今年の米づくりの始まりである。まかれたのはウルチ米のニホンマサリとモチ米のマンゲツモチ。皇居での稲作は昭和天皇から引き継がれたもので、秋に収穫されたコメは宮中祭祀の新嘗祭などに使われ、稲は伊勢神宮での神事にも使われる。
 秩父今宮神社の水分祭や秩父神社の御田植祭は田植えの始まりを告げる予祝神事で、全国の神社で同じような風景が展開されている。水稲収穫農家は、一九六五年の四八八万五千戸から二〇一〇年の一一五万九千戸へと、この四十五年間で四分の一にまで減少しているが、米づくりが日本人を形成してきた数千年の歴史の重みは変わらない。
ものづくりの基本に
 稲作の起源は約一万年前、中国長江流域の湖南省周辺地域とされている。日本の水田稲作については約二千六百年前の水田跡が発見されていて、伝来経路としては朝鮮半島経由説、江南からの直接ルート説、南方経由説の三説がある。比較的狭い耕地面積で多くのエネルギー量を生み出す米が、日本列島での人口増を支えた。
 大量の水を要する水田稲作の始まりは、水の管理が容易な山すそで始まったのだろう。大和盆地の山すそを歩くと、そんな風景を想像できる。鉄製の農具が普及するにつれ、灌漑設備の整備が進み、平地にも水田が開かれるようになった。
 約五十年前まで、田植えが農家の女性たちの共同作業で行われていたように、稲作は集団での協力を発展させてきた。一緒に作業することから人々の交流が深まり、地域社会の一体性が生まれてきた。もみまきから田植え、草取り、収穫が季節の変化と並行して行われるため、人と自然との関係も深まった。今でも山の残雪や花の模様を見ながら、農作業の手順を確認する地域も多い。
 大型の農機具、トラクターや田植え機、コンバインなどの導入による農業の近代化で、農作業は家族単位で行う農家が大半になったが、近年の高齢化、後継者不足もあって、集団化による大規模化が国策として進められている。これは、ある意味農村における共同体の復活と言えよう。
 水や肥料、雑草の管理など細かい作業を要する稲作は、日本人の丁寧なものづくりの精神を培ってきた。個々の農作業は単調だが、大地と呼吸を合わせて作業することから、信仰に近い倫理性さえ育てた。江戸末期の二宮尊徳は、「勤労、分度、推譲」の三原則を基本とする報徳思想を唱え、各地で農村復興を成功させている。
 グローバル経済の進展や財政難を背景に、いわゆる減反政策が終わり、米作は世界を市場とする自由競争の時代に入った。昨年産米の食味ランキングで、新潟県魚沼産コシヒカリが初の格下げとなり、上から二番目の「A」評価になったのは象徴的で、寒冷地の北海道産米が高い評価を得るなど、全国的にブランド米の競争が激化している。二〇二〇年の東京五輪をきっかけに、米をはじめ日本の食が世界的人気を高めるのは間違いない。
 古代からの日本の国際化を振り返ると、天皇を中心に日本人は国際情勢の変化に見事に対応してきている。それは伝統を大切にしながら好奇心旺盛という、日本民族の特性が米づくりで鍛えられてきたからであろう。
 水田には雨水をため、自然環境を守り、多くの生き物を育てる役割もある。適切な水管理は雑草の発生を抑え、除草剤の使用を最低限にできる。除草剤にしても、『沈黙の春』の時代のような毒性は低減し、対象に応じて多彩な薬剤が開発されている。散布の仕方も、手作業から無線ヘリ、そしてドローンへと、人手とコストがかからないよう進化している。
 農業+αという生き方
 しかし、全国の耕作放棄地が滋賀県の広さに達するなど、農業の衰退は止まっておらず、自然環境の保護からも抜本的な対策が求められている。この問題はやはり、日本人が生き方として農業を見直すことなしには解決しないであろう。
 情報を活用すれば、農業は比較的簡単に取り組める。条件に恵まれた人の多くが、農業+αという生き方を選択するだけで、日本の農業と自然は大きく変わるのではないか。二宮尊徳が今の時代にいれば考えたような思想が、日本に生まれる条件は整っている。