神からの預言がコーランに

カイロで考えたイスラム(3)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

コーラン
コーラン

 ムハンマドがガブリエルを通して受けた預言の内容が、コーラン(クルアーン)に書かれている全百十四章である。
 不思議なのはコーランの構成だ。ムハンマドが受けた啓示の順番に書かれているのではなく、一章を除いて長い章の順に配列されている。従って、基本的には、前半部に後期の啓示が、後半部に初期の啓示が掲載されている。つまり、コーランの章句の順番は、啓示された順番とほぼ逆になっているのだ。
 この啓示は最初、ムハンマドを信じる信徒たちによって記憶されたり、骨片などに記されていたが、彼の死後の正統カリフ時代になって、戦争などによって啓示を記憶している人々が次々に死亡するに及び、啓示が失われてしまうことを恐れたカリフが編集を始め、第三代カリフのウスマーン(在位六四四〜六五六)の時代に標準版が編集されたとされる。
 ムハンマドが最初の啓示を受け、イスラム教の教えを広め始めた初期のメッカ時代の啓示は、全部で八十五章あるが、全体的に短く、荒々しく、叙情的で、神は唯一絶対の神であることを強調し、やがて終末の日が訪れ、神の裁きが行われるという、終末論的な雰囲気に包まれたものが多い。(岡倉徹志著『イスラム 信仰・歴史・原理主義』)
 『面白いほどよくわかるイスラーム』を著した青柳かおる氏は、メッカでの啓示を前半と後半に分け、「前半では、短いが躍動感のある言葉で、神の偉大性と恩寵、終末と最後の審判への警告、多神教徒や不信仰者への非難、喜捨などの善行の勧めが記されており、緊張と恐怖に覆われ、神と神の被造物である世界や人間との関係も述べられている。後半の啓示は、聖書に現れる登場人物、つまり過去の預言者たち(アブラハムやモーセ、イエスなど)の物語が多く、説話的だ」と記している。
 渥美堅持氏の『イスラーム基礎講座』には、「メッカの人々に偶像崇拝の愚かさを諭し、神の唯一性を説き、それに帰依することを勧め、現世での行為が、最後の審判の日に神に裁かれることの恐ろしさを幾度も説明し、現世での行為を改めるよう説いた。それはジャヒリーヤ時代への挑戦であり、まさに革命そのものだった」とある。
 一方、ムハンマドがメッカからメディナに移住した後のメディナ時代の啓示は二十八章から成り、岡倉徹志氏は、「全体に長く、冗漫な散文調になっている。
 内容は極めて現世的といってよく、日常生活のあれこれの指示、結婚や商取引にも触れている」とした。専門家の評は、メッカ時代のコーランが〝警告〟的色彩が強かったのに比較し、メディナ時代のそれは、〝導き〟的であるという。
 青柳かおる氏は、メディナ期の啓示は「結婚、離婚、相続など世俗的な法規定が多く、イスラム教徒として行うべき行為についてかなり詳細に述べられている」とし、メッカ時代とメディナ時代の啓示の内容の違いの理由について、メッカではムハンマドは単なる預言者だったが、メディナではイスラム共同体ウンマの指導者となったからだと指摘している。
 ムハンマドが、天使ガブリエルを通して語った啓示の内容を社会的な観点から見ると、富の公平な分配、貧者や寡婦の救済、商業独占化の禁止、道徳の確立、部族間紛争の終焉、忌わしい因習の廃止等々で、それが実現すれば、旧体制が崩壊し、新秩序が確立される内容だったとされる。
 コーランに次いでムハンマドの言行録(ハディース)も聖典とされ、それぞれ、イスラム法(シャリア)の第一法源と第二法源となっている。聖典とはそもそも、神から授けられた啓示や、宗教の創始者の言葉を記した書物のことで、ハディー
スは聖典ではあるが、神が下した啓典ではない。ハディースには、編纂した人物によって複数のハディース集があり、スンニ派で最も権威があるとされるのはブハーリー(八一〇〜八七〇)とムスリム(八一七〜八七五)が編纂した二大「サヒーフ(真正集)」である。
 イスラム教がコーラン以外に啓典と認めているのは、旧約聖書の「モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)」、ダビデが書いたとされる「詩編」、そして、新約聖書の四福音書で、これらの啓典を持つユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」として尊重している。
 ただし、イスラム教は、「イスラム教以前の一神教の誤りを正す最後の正しい宗教だ」と自らを規定し、他の啓典よりもコーランの方が優位にあると説いている。イスラム教徒にとっては、コーランが神の言葉をそのままの形でまとめたのに対して、コーラン以前に下された諸聖典は歪曲されたり、人間の手が下されているので神の啓示を正しく伝えていないという立場で、神はムハンマドを最後の預言者として、彼に正しい完璧な啓示を賜ったというわけである。
 青柳かおる氏は、「イスラム教徒にとってコーランは神の言葉であり、聖域である。従って、一言一句、神の言葉とされ、非常に神聖視されている。しかし、この聖典を絶対視することは、聖典研究の大きな壁になっており、キリスト教のように、聖書を批判的に分析することは許されない。欧米の研究者らが、コーランを神の言葉ではなく、ムハンマドの言葉として研究すると、イスラム教徒からの反発や批判を受ける。しかし、イスラム教徒の研究者も、史料批判に欠けていることは否定できない」と指摘、学問的研究の大きな壁になっていることに言及している。
(2020年4月5日付734号)